2016年09月09日

「津久井やまゆり園」殺傷事件から考える二つのこと

 まずなによりもはじめに、「津久井やまゆり園」での事件において尊い命を失った方々のご冥福をお祈りします。
 そして怪我をされた方たちの一日も早い快復を願っています。そこで暮らしているみなさんや、職員、関係者の方々においては、その心情に大きな負担を受けられているのではないかと察します。どうぞその快復もされるよう願っています。


 この事件の一報を聞いた時には悲しみや怒りよりも、ただただ驚きを感じました。悲しみや怒りという感情が湧いてきたのはしばらくたってからのことです。およそ一カ月が経った今でもこうした感情は静かに続いていて、事件に関する冷静な思考を立ち止まらせます。そんな状態なので冷静に書き切ることができるかどうかわかりませんが、事件から僕が思考する大きく二つのことについて、まとめてみたいと思います。
 一つ目は犯人とおぼしき容疑者(以下「容疑者」で統一します)が衆院議長に届けようとした手紙に書かれていた「安楽死」についてです。容疑者の使う「安楽死」はおそらく誤用なのですが、単純に使い方を誤っているというだけではない恐ろしさを僕は感じています。
 二つ目はこの事件が今まであった障害者と呼ばれてしまう人たちに対する差別や偏見などとは異なる性質の差別、偏見にもとづく事件だということです。僕はブログ『もうひとつの福祉』に2013年12月29日付けで「袖ヶ浦福祉センター養育園利用者への虐待についての考え」という記事を書きました。とりもなおさず同園で起きた職員による虐待殺人の事件についてです。お読みになった方はどうぞ思い出してください。僕はその中でこの事件を「こうした古い時代の障害福祉施設での虐待」、あるいは「古典的な狂気に支配された虐待」という表現で表わしました。それはずっと前から僕の中に、障害者と呼ばれてしまう人たちを取り巻く環境の変化に対応した新しい形の差別や虐待や事件が、将来起きてくるという不安があったからです。その将来において起こり得ると想像していた事件が、まさに今回の「津久井やまゆり園」での殺傷事件だったのです。このことについて、二つ目にまとめておくこととします。

1,「安楽死」について

(1)「障害者への安楽死」は「優生学」とも「経済性」とも関係ない、ただの殺人だ

 ここで書くことは今回の事件において語られている「安楽死」という言葉の誤用や、それが持つ不安な未来について僕なりの意見を論じるものです。「安楽死」そのものについての善し悪しなどについて言及するものではないことを、あらかじめ断っておきます。

 さっそく容疑者が衆院議長にあてた犯行予告ともとれる手紙から、そこに書かれていた「安楽死」を考えていきましょう。
 「安楽死」については、人それぞれで定義が微妙に異なるような気がします。しかしその許容範囲を最大限に考慮したとしても、やはり容疑者の使う「安楽死」という言葉の使い方は間違っているといわざるをえません。
 現在日本で行われている「安楽死」について、僕がすぐに思い浮かべる例は三つあります。一つは死が目前に迫ってきた時に延命治療をおこなわないこと(おこなわれている治療を止めたり、ある種の薬などを使って死を迎えることなどはここでは「安楽死」には含めません)。そしてもう一つは保健所で行われる動物への「安楽死」。そして死刑囚への拷問をともなわない刑の執行です。この三つの例から「安楽死」を論じるのはだいぶ無理な気もするのですが、少なくとも共通することは見つけられそうです。
 いろいろ考えていくと三者に共通していえることは、死が決定づけられた対象が、少しでも苦痛の少ない形で死の時を迎えるということです。これが「安楽死」の定義の一つだとしたなら、今回の事件はまったくの逆です。犯人は少しでも早く楽になるようにと急所にあたる部分を狙ったり、何度も何度も繰り返し刺したつもりかもしれません。しかしそれがどれほどの痛みを与えるものであったか、そして隣のベッドにいる人が刺される気配を感じている時の恐怖がどれだけ大きかったことか。これは少しでも苦痛の少ない死という意味での「安楽死」とは明らかに異なるものです。
 フランスでギロチンが発明された時、それは少しでも苦痛が少なく一思いに一瞬で死を迎えられる道具として作られたと聞いたことがあります。それまでの拷問のような処刑方法などからするとより「安楽死」の方法だったわけです。このフランス革命時代の「安楽死」の概念と比較したとしても、容疑者のとった殺害方法は「安楽死」とは言い難いものなのです。
 もし誰かが安楽になる理屈が容疑者の中にあるとするなら(もちろん、そんなものを認める気はまったくありません。しかしあえてそれを手紙の中から探してみると……)、「保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為(ため)と思い」ということでしょうか。容疑者は手紙を衆議院議長に渡そうと考えた理由としてこう主張しているのです。そして「理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれない」と言っています。容疑者の妄想に付き合うのは少しばかり辟易しますが、この文章について考えてみます。すると、彼が多少なりとも「安楽」を考えているのは、「保護者」「施設職員」「日本国と世界」のためであることがわかります。本来の安楽死は死を目前にした対象の死に方の「安楽」を問題としているのに対して、この容疑者は対象を殺すことによって、他の人たちや日本や世界に「安楽」をもたらそうとしていた感じがあります。これは「安楽死」ではなく、単なる「殺人」なのです。

 ではなぜ単なる殺人者が、それを「安楽死」だと妄想できたのでしょうか。容疑者は取り調べの中で「ヒトラーの思想がおりてきた」と語っているとの報道がありました。と、すると容疑者の「安楽死」はヒトラー及びナチスドイツが行ったT四計画に影響されたものだと考えられます。T四計画はどのようなものであったのか、一般的な認識としてあえてインターネット上のウィキペディアを引用することにします。

 T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4)は、ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策である。1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。(T4作戦−Wikipedia)

 とあります。ちなみに中止された以降の継続は下記のように説明されています。

 T4作戦への批判が高まったことから、1941年8月24日にヒトラーはボウラーに対して安楽死の中止を口頭で命令した。この中止命令により、安楽死政策そのものは公式的に中止されたと公には受け取られたものの、実際にはハダマー安楽死施設のガス殺が中止されたのみに過ぎなかった。それ以外の精神病患者の収容施設では医師・看護師による患者の安楽死が国家の統制を比較的受けない形で続行されるばかりか増加し、「野生化した安楽死」と呼ばれた。また「作戦中止」後にT4作戦の職員はいわゆる絶滅収容所に配置され、かれらの伝えたガス殺・死体焼却・施設のカモフラージュに関する技術がホロコーストに利用された。(T4作戦−Wikipedia)

 一般的な理解はこのようなものなのでしょう。昨今のT四計画を取り上げたテレビ番組や書籍においてはこの定義が採用されている場合が多いと思われます。容疑者が超能力者でないとしたなら当然のことながら何らかの媒体を経てT四計画を知ったのであり、それを「降りてきた」と錯覚してしまったのだろうと推測されます。あくまでも推測ですが、容疑者が知った媒体はこの定義に則して作られたテレビ番組か書籍か、あるいはネット情報だったのではないかと僕には思えます。
 しかし、この定義が唯一無二の定義なのかというと、必ずしもそうではありません。一般的なT四計画の定義と異なる考え方が存在する部分。今僕が問題にしたいのは「ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策」というくだりです。たしかに優生学思想を巧みに利用した事実はあるかもしれませんが、少なくともT四計画そのものは優生学思想とはまったく関係のないものだったと僕は考えています。
 僕が最初にT四計画を意識したのは(ナチスドイツによってそうしたことが行われていたことはそれ以前から漠然と知ってはいたのですが、はっきり意識したということで言うなら)、ジョルジョ・アガンベンの著作『ホモ・サケル』においてでした。『ホモ・サケル』を引用します。

 ヒトラーがこれほど不都合な状況下でも執拗に安楽死計画を実行しようとしたということは、国民社会主義の生政治を導いていた優生学の諸原則によるものとされたこともある。だが、厳密に優生学的な観点からすると、安楽死はとくに必要なものではなかった。遺伝病の予防やドイツ人民の遺伝的健康の保存に関する法によって、すでに充分な保護がおこなわれていたし、この計画の対象とされた不治の患者は大多数が子供と老人であり、いずれにせよ生殖能力はなかった(優生学的な観点からすると、表現型の抹消ではなく遺伝形質の抹消だけが重要なのは明らかである)。また、この計画は経済的次元にかかわる考慮に結びついたものでもない。その反対であって、この計画を実行することは、公共機構が全面的に戦争に集中したときにはかなりの負担となった。それならなぜヒトラーは、この計画が人気のないものであることを完全に意識していたにもかかわらず、是が非でもこれを実行することを欲したのか?
 残る説明は一つだけである。この計画において、人道的問題という外見の下で問題となっていたのは、国民社会主義国家の新たな生政治的使命の地平で、主権権力の剥き出しの生に関する決定が行使されるということだった、ということである。 (『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』ジョルジョ・アガンベン 高桑和巳訳 以文社)

 アガンベンが看破している通り「優生学的な観点からすると、表現型の抹消ではなく遺伝形質の抹消だけが重要なのは明らか」なのです。ナチスドイツが「障害者」と認識する人たちを直接抹殺することが、優生学の持つ遺伝レベルでの「障害者」の根絶になるためには、すべての「障害者」が遺伝によって出現している必要があります。しかし現実はどうでしょうか。戦争で負傷して「障害者」になった人が優生学の対象にならないのは明らかです。脳の疾患の後遺症として障害を負った人たちも同様でしょう。高齢によって障害を負った場合も遺伝は関係ありません。仮に生まれた時からの「障害者」に限ったとしても、そのすべてが遺伝的理由によるものではなく、出産時の諸事情や親が何らかの有害物質を摂取していたことなど、その理由は様々です。そしてアガンベンが指摘しているとおり「遺伝病の予防やドイツ人民の遺伝的健康の保存に関する法によって、すでに充分な保護がおこなわれていた」のですから、それが医療的であれ福祉的であれ保護状態にある「障害者」が遺伝子を次の世代に伝える状態そのものがなかったのです。さらにいうなら、「障害者」が生殖したとしても遺伝的にかならず「障害者」か生まれるというようなことはありません。生まれなくても、民族の遺伝子の中に「障害者」が生まれる遺伝子があることが問題なのだとするなら、抹殺すべきは「障害者」直接ではなく、すべての国民の遺伝子を調べて、それを持つ全員を抹殺するということになるのでしょう。何らかの遺伝子の変異まで想定に入れるとしたなら、「障害者」をまったく生まれないようにするためには現在生きている人類のすべてを抹殺する必要があるのでしょう。
 考えてもみてください。みなさんの身の回りに明らかに遺伝子に起因する障害をもつ人がいたとします。優生学はその遺伝子が続いていくことを問題にしますが、その遺伝子が本当に続いていくというのなら、その「障害者」の両親は同様の「障害者」なのでしょうか。遺伝子は後に続くだけではなく、遡られます。その遺伝子を持っていても発現せずに「障害者」ではなく暮らしている人たちが大勢いることにはならないでしょうか。直接「障害者」を抹殺するということが、「優生学」の思想上、まったく効果のない行為であることは明らかなのです。
 このことはナチスドイツの「障害者」安楽死計画において、もっとも明解に証明されていると考えます。T四計画によって殺された人の数は10万人とも言われています。実際には「障害者」ではない人たちも含まれていたと思われますが、10万人以上に多かったという説もあるので、とりあえず10万人の「障害者」が抹殺されたとしましょう。1945年にドイツが降伏してからおよそ60年後、2004年のOECDの調査があります。国別の国民(20〜64歳)にしめる障害者割合の調査です。それによるとイギリスが18.2%、ドイツは18.0%、フランスは16.0%でした。国によって「障害者」の定義が異なるなどの事情があるかとは思いますが、ドイツがイギリスとさほど変わらない、フランスよりも障害者の割合が高いということ。ドイツにおける「障害者」の割合が必ずしも低くなっていないという事実。10万人もの「障害者」を抹殺して60年しかたっていないというのに! それが「優生学」の見地から行われたのだとしたなら、その遺伝子抹殺計画はまったくの失敗だったと言わざるをえません。ナチスドイツがT四計画の正当化のために「優生学」を持ち出したということはあったにしても、「優生学」と「障害者への安楽死」の間には何の繋がりもなかったのです。

 「優生学」の立場から論じていますが、僕は「優生学」を思いっきり軽蔑しています。あくまでも「優生学」の愚かさを検証するために「優生学」の立場に立って論じているに過ぎません。それにしてもこれは不快な作業です。でもものはついでです。不愉快ですが、もう少し「優生学」の立場に立って話を進めさせてください。
 ナチスドイツに限らず、時折「安楽死」が「優生学」と結びつけて考えられるのは、「障害者」が生まれないようにしようという意図からだろうと思います。そうでなければ遺伝を問題にする「優生学」が引っ張りだされている根拠はないのでしょうから。
 では、現代社会においてもっとも多くの障害者を生んでいるのは誰でしょうか。その人の母親ではありません。母親はどんなに頑張っても産むことのできる子どもの数には限界があるのですから。
 これが最大かどうかはわかりませんが、僕の知る限りではベトナム戦争で作り出された「障害者」数には驚くべきものがあります。ここでは二つだけあげておきます。共にアメリカが産みの親です。一つは枯葉剤。これによって100万人以上の後遺障害者が出ているといいます。それは二代、三代にも現れているようで、そういう意味ではアメリカは文字通り遺伝的レベルでの障害者を産んでいることになります。そしてもう一つは地雷です。ベトナム政府の2014年の発表では6万2000人が負傷し、膨大な数が埋まったままになっている不発地雷のために現在でも多くの死者、負傷者が出ているといいます。僕らはベトナム戦争と呼びますが、これはカンボジア、ラオスを含むインドシナ戦争だというのが本当です。それによって同様の障害を負った人たち、現在でも障害を追い続けている人たちはカンボジア、ラオスにも大勢います。そしてこれらの数字は通常兵器での被害者や、アメリカに帰還した兵隊のその後の精神疾患の発症などは数字に入れていません。それらを加えたならベトナム戦争によって作られた「障害者」の数はどれだけになるのでしょうか。
 もうお分かりかと思います。ナチスドイツが10万人の障害者を抹殺しても、60年後の「障害者」数が減ることはありませんでした。かりに全国民の遺伝子を調査して、「障害者」に繋がる遺伝子を持った国民を抹殺したとしても、それは一人抹殺して一人の障害者の誕生を阻止できるかどうか、という程度のことです。もし、障害者の誕生を阻止しようという「優生学」及び「安楽死」であるなら、ベトナム戦争勃発時点で、アメリカの指導者や戦争で利益を得る人々を「安楽死」させればよかったのです。その数がかりに100人でも、1000人でも、10000人であったとしても、それで枯葉剤と地雷のばらまきが防げたのなら、T四計画よりもずっと有効だったといえるでしょう。
 「優生学」などという頭の悪い理論が存在するとしたなら、それは個々の人間のレベルでの遺伝子においてではありません。社会の中に、「戦争」に代表されるような悪意に満ちた劣悪な遺伝子があるのだと考えてみてください。もし本気で障害者を生まれないようにしたいのなら、そうした社会の中の劣悪遺伝子を根絶するべきなのでしょう。この劣悪な遺伝子には他にも水俣病のような公害病、原爆や原発のような放射能をまき散らし、あるいはまき散らす可能性のあるものも含まれます。
 でも、はっきり言っておきます。「障害者」を生まれないようにするという発想そのものが、社会の中での劣悪な遺伝子そのものなのです。「優生学」に付き合って、「障害者」が生まれないためにはみたいな書き方をしてきましたが、本意ではないことを念のため断っておきます。

 アガンベンは、経済的なこともナチスドイツにおいてはT四計画の理由にはならなかったと言っています。このことが現在の日本においても同様であることは、ここまでの説明で明らかかと思います。一人ひとりの「障害者」を連れてきて「安楽死」させることよりも、本当に「障害者」をこの世の中から抹殺したいのなら、「障害者」を生産している社会の劣悪遺伝子とも言える現在の世界中の指導者と、現在の社会の仕組みの中で利益を得ている人たちを抹殺する方がよっぽとリーズナブルなのですから。
 でも、抹殺してはいけません。彼らが社会における劣悪遺伝子だという言い方は「優生学」に引っかけてのものです。大前提として、障害者と呼ばれてしまう人たちには何一つ劣悪生もマイナス要因もないわけです。それを産み出したものたちに、その点で必要以上の責任を問うことはできないだろうから。彼等の責任は純粋に戦争によって殺したり負傷させたり、公害や原発などを放置して同様の事態をひき起こしたりという責任においてのみだと僕は考えます。
 論が逸れました。もとに戻して考えていきます。アガンベンはT四計画を「優生学」「経済性」のいずれからも意味がないと結論づけました。「津久井やまゆり園」の事件の容疑者も「優生学」と「経済性」を匂わせていますが、これまでの説明の通り、これらは容疑者の考える「安楽死」と無関係であることは明らかです。
 容疑者が「障害者への安楽死」について「優生学」や「経済性」をどれだけ持ち出したとしても、それはまったく無関係なことなのです。僕らは容疑者の主張に振り回されるべきではありません。事件に関する言論のいくつかで、当たり前のように、なんの疑問も持たずに「障害者への安楽死」を「優生学」や「経済性」と結びつけている例を見聞きしています。このことをまず疑うべきなのでしょう。「優生学」は本当に「障害者への安楽死」の理由になるのか?これを疑わずに容疑者の主張に追従する言論に、僕は大きな危険を感じるのです。

(2)方法でしかないはずの「安楽死」が「死の決定づけ」とセットになる怖さ

 「安楽死」について、さらに論を深めていきましょう。
 僕は「安楽死」というのは、何らかの理由により死が確定している場合に、その苦痛が少ない方法で死を迎えさせることだと考えています。つまり「安楽死」というのは、死を迎える方法のことであり、それ以上のことではないということです。先に書いたギロチンがその例です。
 このことから、「安楽死」という方法が正当に行われるためには、その対象者が確実に死を目前にしていることか不可欠だと僕は考えています。だからこそ、より苦痛の少ない死に方を、という発想から「安楽死」がでてくるのです。まだ生きる道筋がある場合に(つまり死が決定づけられていない状態で)「安楽死」が選択肢として存在しないことは説明するまでもないことでしょう。
 問題は、ここです。
 死刑囚への「安楽死」という方法は、その対象の死刑が確定していることが前提としてあります。保健所での動物の「安楽死」もその動物が殺処分されることが決まっていることが前提です。ときおり議論になる末期の患者に対する「安楽死」も、その死が逃れられないものとして目前に迫っていることが前提となるのでしょう。
 しかしこの容疑者においては、そしてもしかしたらもっと社会全体に広く、間違った理解による「安楽死」という言葉の使用があるのではないか。そんな危惧を抱いています。
 それは「死の決定づけ」がされていない対象への「安楽死」の使用。本来別々であるはずの「死の決定づけ」と「安楽死」をセットにすることで、死に直面していない人たちに「死の宣告」と「死の方法の選択」を同時にさせるような、「安楽死」の用い方です。
 こんな例だとイメージしやすいかもしれません。映画の場面だと思ってください。二人の兵士が森の中にとり残されているとします。一人は瀕死の状態です。食べ物は無く、どこからかオオカミの遠吠えが聞こえてくるようなシチュエーション。瀕死の兵士を置いていかなければならない場面で、「生きたままオオカミに食われるのは嫌だ。一思いに銃で撃ち殺してくれ」というのは本来の「安楽死」の語法だと僕は考えます。死がすでに決定づけられている前提ですから。
 これに対して、こんな映画の場面はどうでしょう。殺し屋が一般の市民に銃を突きつけて「金を出せ。出さなければ手足から撃って苦痛を与えながらじわりじわりと殺す。金を出せば一発で脳天を撃ち抜いて殺す。どっちがいい?」と言っているシチュエーション。この場合は死の決定づけが前提ではなく、死の決定づけと死に方とがセットになっています。死に方で安楽な法を選ぶ形にはなっていますが、僕はこれは本来の「安楽死」ではないと考えるのです。
 ではなぜ、後者のような「安楽死」という言葉の使い方がまかりとおっているのでしょうか。どのような場合に生きる道が残されている人たちに対しての、「死の決定づけ」込みの「安楽死」が行われるのでしょうか。
 アガンベンは先の引用の中で、こう言っています。
 「残る説明は一つだけである。この計画において、人道的問題という外見の下で問題となっていたのは、国民社会主義国家の新たな生政治的使命の地平で、主権権力の剥き出しの生に関する決定が行使されるということだった、ということである」
 「剥き出しの生」たる「障害者」に対して、「死の決定づけ」を含んだ「安楽死」を実行できたのは「主権権力」だとアガンベンは言っています。T四計画においてそれはヒトラーでありナチス政権なのでしょう。そして彼らが当時としては正当な民主的手続によって政権を握っていたことを考えるなら、当時のドイツ国民そのものが「障害者」という「剥き出しの生」に対して主権権力だったとも言えるかもしれません。
 この主権権力、つまりそれは生政治における主権権力ということなのですが、アガンべンはミシェル・フーコーの定義を用いていると考えてよいかと思います。先に引用した部分が書かれている『ホモ・サケル』の第三部の「生政治」の章において言及されているのはミシェル・フーコーの『知への意志』という著作でした。

 長いあいだ、君主の至上権を特徴づける特権の一つは、生と死に対する権利[生殺与奪の権]であった。(『性の歴史T 知への意志』ミシェル・フーコー 渡辺守章訳 新潮社)

 この「生殺与奪権」をもつものが主権者であるということの指摘。さらに詳しく、フーコーは述べています。

 主権者=君主はそこでは生に対するその権利を、ただ殺す権利を機能させることによって行使するか、あるいはそれを控えるかである。彼は生に対する彼の権力を、彼が要求し得る死によってのみ明らかにする。「生と死の」という形で表わされている権利は、実は死なせるか、それとも生きるままにしておくかの権利である。結局のところ、それは剣によって象徴される。(『性の歴史T 知への意志』)

 この「生殺与奪権」を握っている者が、対象に対して死の決定付けを含む「安楽死」を実行可能なのだと考えます(実行して良いということではありません。実行してはいけないのですが、その力を持っているという意味です)。ですからT四計画においては、死を目前としていない「障害者」に対しても「安楽死」を実行することができた。死を目前としていなかったとしても、対象の生殺与奪権をナチスは握っていたのですから。今現在死を目前としていなくても、いつでも死を目前にさせられる権力(生殺与奪権)を持っている者が主権権力であり、それを握られているのが「障害者」という「剥き出しの生」だったのです。

 「津久井やまゆり園」での殺傷事件においては、容疑者の使用した「安楽死」はどのようなものだったのか、あらためてまとめておきます。
 まず容疑者は「障害者への安楽死」の理由を「優生学」や「経済性」に求めていましたが、それは誤りです。そしてT四計画のように、死の決定づけとセットにして「安楽死」を定義していたと思われます。それは犠牲になった一人ひとりの「障害者」が死を目前とはしておらず、犯人に刺されることによってはじめて死を決定づけられていることから明らかでしょう。しかしそれを「安楽死」ということはできません。T四計画の場合には、それでも死の方法としては安楽な手段がとられていたのに対して(もちろん、そうだからといって許されることではないのですが)、容疑者は残酷極まりない殺害方法をとっているのですから。つまり「安楽死」という言葉の表わす意味がT四計画において「あいつを安楽死させよう」だったのに対して、「津久井やまゆり園」の容疑者においては「あいつを殺そう」でしかなかった。本来、死の方法を表わすだけだった「安楽死」という言葉が、主権権力によって死の決定付けがセットにされ、今回の容疑者においては安楽な死の方法という本来の意味が喪失した、単なる死の決定付けとセットになった殺人に変化してしまっている。僕にはそう思えるのです。


2,新しい福祉制度の時代の新しい差別

(1)福祉サービスを得ることと引き替えに「障害者」にカテゴライズされる

 僕は今回の事件を、新しい種類の事件だと考えています。正確に言うなら、障害者と呼ばれてしまう人たちの生きている環境が大きく変わりつつあって、その新しい環境下で起こり得ると予測される事件だったという意味です。環境が新しくなると、当然のことながら事件そのものも合わせて姿を変えるということです。では、どのような環境から、どのような環境に変わりつつあるのか。それにともなって事件の形はどのように姿を変えるのか。
 これはずっと通信やインターネット上のブログ、講演などで書いたり言ったりしてきたことです。日本の制度による障害福祉は、措置制度から支援費制度に移行したころをきっかけにして、新しい段階に入ってきました。今はまだその過程なので実感は少ないかもしれませんが、この変化によって障害者と呼ばれてしまう人たちの生活の環境が、生活それ自体が、社会における障害者と呼ばれてしまう人たちの定義そのものが、まったく別物なってしまうという危険と不安を僕は感じています。
 その新しい変化、それは一人ひとりとしての存在だった障害者と呼ばれる人たちを、「障害者」というカテゴリーに所属させ一括管理する環境です。制度上は「障害者」を管理するのではなく障害福祉を一括管理するシステムであるはずの障害者総合支援法。しかしそのサービスを受けるためには、障害者と呼ばれてしまう人たちは「障害者」のカテゴリーに入り、区分判定(支援区分の判定だと名前を変えたとしても)されます。もちろん、それはサービスを受けている時間帯の話です。しかしそうした福祉サービスの充実にともない、一人ひとりが一日の中で、あるいはその一生の中で「障害者」としてのサービスを受けている時間は格段に増えつつあるのではないでしょうか。
 批判をしているのではありません。現実として、当たり前のように小さな時から「障害者」としてのサービスを受け、そのサービスと引き替えとして「障害者」のカテゴリーに入団する。僕が四半世紀前に目撃していた、福祉サービスとは関係のない付き合い、たとえば誕生日を一緒に祝ったり、夜居酒屋に一緒に飲みに行ったり、アパートの部屋でみんなでざこ寝をして語らいながら朝を迎えたり、一緒に海外旅行にいったり、恋をしたり……。そうした制度の外にある、人間としての普通の日々はどこに行ってしまったのでしょうか。もちろん、「そんなことを言っていたら、障害者は生きていけないんだ」とか「サービスに預けないと、親が働けないんだ」というような声があるのは、わかります。だからそれを批判するわけではないのです。ただ、「障害者」というカテゴリーに入団することが、生きる環境を確実に変えてしまっていることについて認識してほしいのです。
 いま起こりつつある新しい障害福祉環境への変化は、形の上では未整備な福祉環境によって生じていた苦しみから解放されたいという願いからはじまったのだと思います。政府が「障害者」を管理したいから福祉制度を整備したのではなく(その意図がまったくなかったというわけではないのでしょうが)、障害者と呼ばれてしまう一人ひとりが生活の難しさから、差別や偏見から、生きることそのものの困難さから、福祉制度の充実を願ったのです。野蛮な福祉制度から文明的な福祉制度への移行を願ったのが、措置制度から支援費制度への移行だと僕は考えています。しかし制度の整備は、その制度を受ける人たちが誰であるかを明確にし、一つの平等の考え方から障害程度に応じて(あるいは支援程度に応じて)公平にサービスが提供されることを要求したのです。このことは公的サービスとしては当然のことですが、これによって障害者と呼ばれてしまう人たちは「障害者」として平等な差別のない存在となったのです。「障害者」のカテゴリーの中では平等だということ。その中では差別を受けない(実際には受けていますが)ということ。このことが完成するにつれて、新しい差別が立ち現れてきているのです。それがつまり、「人間」を「障害者」として差別するということです。
 四半世紀前、たとえば二人の子どものうち弟が障害をもっているような場合に「将来はお兄ちゃんみたいに普通の暮らしをしてほしい」と願う母親の言葉を何度となく聞いてきました。それが今は「将来はグループホームで普通に暮らしてほしい」という言葉を多く耳にします。前者が「人間としての普通」であり、後者が「障害者としての普通」です。
 あるいは昔だったなら、五十嵐正人が知的な障害を持っていて行動がいちじるしくゆっくりだったような場合、五十嵐は「この、のろま!」と差別を受けたことでしょう。それが新しい時代には「この、障害者が!」と差別を受けるのです。五十嵐正人が一人の「人格」として差別を受けるのではなく、「人格」が消失し区分判定で数値化され、障害という生きづらさが支援計画の対象事項にすり替えられて……。親からもらった名前がその思い出や人生を喪失した「五十嵐正人」という単なる記号となり、それよりも数値化された程度区分が重視される存在として「この、障害者が!」と差別されるのです。「この、のろま!」と言われた時には、少なくとも五十嵐正人に対する憎しみがこもっていたのでしょう。その憎しみさえも「この、障害者!」からは無くなっている。憎んでさえもらえなくなった五十嵐正人。それが新しい時代に予測される「人間」が「障害者」に差別される危険なのだと、僕は考えています。

(2)「障害者」がヘイトの対象とされてしまうかもしれない未来

 むかしも、特定の個人ではなく「障害者」という存在への差別はありました。しかし今ほど「障害者」の定義が明確ではなく、それこそ無知から来る誤解に満ちあふれた障害者観による偏見や差別のレベルでした。しかし今は、そしてこれからの「障害者」という括りへの差別は明確で文明的な差別です。誰が「障害者」というカテゴリーの住人であり、どのような障害であり、その支援区分はどのようであるのか、数値化されていくのですから。それによってより公平で的確なサービスを受けられるようになる反面、より正確な差別をされるのです。今回の「津久井やまゆり園」での事件がおきた時に、ヘイトのはじまりを危惧する言論がいくつか聞こえてきました。こうした状況を考えると、それはあながち間違っていないように思えます。
 家族がその本人のあれこれを手伝うような場合、それは本人に向けて本人に適した方法で手伝うことになります。しかし制度としての福祉サービスを利用する場合、家族は本人のためにより本人に合うサービスを選んだとしても、提供されるサービスは基準に則った一定レベルの公的なサービスになります。ヘイトはたとえばそれに使われている税金に照準を当てて非難をしてくるかもしれません。本人と家族がどんなに、本人自身のために行動した結果であっても、使われるサービスは本人のものではなく、国のものなのです。国のサービスを使う限り、一人ひとりの生き方や暮らしなど個性豊かな個別のあれこれが、何もかもひっくるめて数値化され、福祉サービスの利用者(「障害者」)にかかる税金の料として集計されるのです。
 日本は多民族国家ですが島国であるという特性からか、ヨーロッパほどの移民問題は抱えていません。ヨーロッパでは不況や失業者の増加、そして相次ぐテロ事件などが原因となって移民排斥の動きが出ています。日本において不況が深刻化し失業者が溢れるような事態になった時、ヘイトは何をターゲットにするのでしょうか。僕はその状況になっても国民みんなが「障害者には今まで通りの予算を出して、安定した暮らしをしていてほしい」と望むとは、とうてい思えないのです。移民問題がヨーロッパほど深刻ではない日本では、福祉予算がヘイトの標的になるという可能性は、極めて高いと僕は危惧しています。
 その時、移民であれば排斥すればいいのでしょう(酷い言い方になってしまっていますが)。あるいは国境をまたがせないようにする方法もあるかと思います。では、障害者の場合にはどのように排斥がなされるのか。僕がずっと以前から、新しい福祉状況が出来上がってくる中で心配しているのは、この最悪のシナリオです。
 障害者と呼ばれてしまう人たちが、完璧に「障害者」にカテゴライズされ数値化された未来においては、その障害者のための法律を変えるだけで「障害者」を抹殺することが可能になるのではないか。積極的な方法は尊厳死のような法律を作り、自発的に御国のために死んでいく「障害者」や死なせる家族を募る方法です。冗談のようですが戦時中には一般的日本人の中にそうした意識が芽生え、戦場へと若者が送られていった例が少なからずあったはずです。
 そして消極的な抹殺方法は、福祉サービスの予算を減らすことです。むかしあったようなボランティアや近隣の人たちによる手伝いといったような伝統が、完璧に公的福祉サービスにとって変わられた未来を想像してみてください。福祉の予算が削られ、充分な支援を公的な福祉サービスから受けられなくなった時に、かわって手助けしてくれるような伝統はもう無くなっているのです。その時、「障害者」とその家族はどう生きていくのでしょうか。

 ここで思い出してほしいのが、「安楽死」の文脈で書いた「生殺与奪権」です。
 僕は公的な福祉サービスの文明的な充実とその完全なる利用こそが、障害者と呼ばれてしまう人たちが自身の生殺与奪権を政府に委ねることにほかならないのだと思っています。どんなに不況になっても、街中に失業者が溢れても、あるいは日本が戦争をできる国になって実際に戦争状態になったとしても、「障害者」の予算だけは削らない、などという保証はどこにもないのです。むしろ、そこまで楽天的になって、はたしてよいものでしょうか。
 生殺与奪権を握っている者には、「安楽死」とセットになった「死の決定づけ」をすることができてしまいます。日本においては政府です。そう考えると、「津久井やまゆり園」殺傷事件の容疑者が手紙の中で安倍首相に「死の決定づけ」を願ったことは、残念ながら理に適ったことだといわざるを得ません。容疑者の手紙にはこんな文面がありました。
 「ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します。日本国と世界平和の為に、何卒(なにとぞ)よろしくお願い致します。想像を絶する激務の中大変恐縮ではございますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております」
 けっきょくこの願いは安倍首相には届かず、容疑者は現場での自身による「死の決定づけ」で殺害を行いました。しかし公的福祉制度の充実によって「障害者」の生殺与奪権を握ることになる政府に、あるいは首相に「死の決定づけ」を願った事実は恐ろしいことだと思います。これがつまり、新しい形の差別であり「障害者」に対する犯罪なのです。
 「優生学」とも「経済性」とも無関係でそれらを理由としては成立しない「障害者への安楽死」が、それでも「優生学」と「経済学」でまことしやかに偽装してせまってくる未来。制度としての福祉サービスを使うことを拒否するべきだとはいわないまでも、それによって自身の大切な生殺与奪権を誰かに委ねてしまってはいけないと、僕は強くいいたいのです。

(3)「障害者」を差別してはいけないのではない。人間を「障害者」に差別してはいけないのだ

 僕らにできること。二度と「津久井やまゆり園」殺傷事件のような悲劇を起こしてはいけない。ヘイトによって悲しい思いをしたり、「障害者への安楽死」が強制されるような未来を迎えてはいけない。そのために僕らは何ができるのでしょうか。
 おそらくそれは、現場に刃物を持った殺人者が侵入してきた時、それを阻止するべく闘うことだけではないのでしょう。むしろそれは困難に近いことなのです。問題は事件が起きていない平穏な日々にあると考えます。襲ってくる殺人者が殺意を日常の中で蓄積させてるように、僕らの本当の闘いもまた日常の中にあるのだと思います。
 いつも施設での虐待死事件や、親族による殺害事件などが報道されるたびに僕らは憤りと悲しみを感じてきました。そしてその度に何とかしなければと思います。しかしその後の平穏な日々の中で、多くの場合何もしないまま忘れていくのです。こんな繰り返しを、いつまで続けていくのでしょうか。

 僕らにできることの一つ、それは完成されようとしている「障害者」というカテゴリーから一人ひとりをはみ出させることなのだと、僕は考えています。何度もいいますが、福祉の制度を拒絶することは現実的ではありません。それを使いながら、「もうひとつ」の何か、人間をカギカッコに括らない何かを求め、実践し続けることが大切なのだと思います。
 「障害者」のカギカッコを曖昧で脆弱にしていくこと。「障害者」を、障害者と呼ばれてしまう人たちに取り戻すこと。公的制度を使うことで数値化され管理されても、その数値化をはみ出す人間性を保ち続けること。そしてそうさせることが、僕たちにできることなのでしょう。
 たとえば我が家では森山裕子さんと村上弓子さんと一緒に暮らしています。僕はとてもへなちょこなので「障害者への安楽死」が法制化され、憲兵たちがやってきて銃を突きつけてきた時に、闘い大切な人たちを護りきる自信はありません。ナチスからアンネ・フランクを匿うようなことができる保証がないのです。でも、そうした場面ではないとりあえず平穏な今なら、裕子さんや弓子さんと暮らし、大切な人たちと国の制度外で関わることはできます。言い方を変えるなら、今それができなければその場面がきた時にはきっと何もできないのだろうと。
 「障害者」にならなければ国の福祉制度は使えません。それがなければ暮らせず、生きられない人たちもたくさんいます。しかしそれによって生殺与奪権を他者に握られ、不当な「安楽死」の危険に曝される未来。
 障害者総合支援法は「障害者」を支援してくれます。障害者差別解消法は「障害者」への差別を解消してくれるのでしょう。そして障害者虐待を防止する法律、権利を擁護してくれる法律は「障害者」への虐待を防止し「障害者」の権利を護ってくれるのでしょう。でもこんなものは嘘っぱちです。誰であっても、人間として支援され、人間として差別を受けず、人間として虐待が防がれ、人間として権利が護られるべきなのです。
 「障害者」を差別してはいけないのではありません。人間を「障害者」に差別してはいけないのです。

 最後にもうひとつだけ。ナチスは「障害者」やユダヤ人に対しての生殺与奪権を持ち、「安楽死」という名の虐殺を行いました。しかし彼らにその「生殺与奪権」を与えたのは、当時のドイツ国民だったのです。その時代のドイツにおける民主的手続によって、ナチスは信任を得て政策を行ったのですから。
 同じことが、僕らにもいえるのではないか。未来において本当に政府が生殺与奪権を持ち、「障害者への安楽死」を行ったなら、それを根拠に「障害者」へのヘイトが起こり、執行人の代理になったつもりの殺人者が刃物を持って施設に侵入するような時代がきたなら……。それは議会制民主主義に則ってそうした国づくりをする代表を選んだ国民に責任があるのでしょう。そういう意味では「障害者」についての生殺与奪権を握ろうとしているのは、たとえ望んではいなかったとしても僕ら国民一人ひとりなのです。
 その自覚をもって、大切な人たちが「死の決定づけ」をされない社会を、僕らは作っていかなければならないのだと思います。
posted by 五十嵐正人 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 五十嵐の意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月04日

「多機能トイレ」について。そして論は逸れて、いつもの話に

 名称云々について、「そんなものはどうでもいいだろう」という発言を、ときおり耳にします。特に障害福祉関係の人たちの中で、そういった意見を多く聞くように思います。
 しかし、「名称」というのは、とても重要なものなのです。ミシェル・フーコーなどを読まれる方は、その「言説」のくだりを思い返してください。そうでない方も、使われる言葉によって僕らが操作される場合があることを知っているはずです。
 たとえば、毎日のように報道される中東の国への「空爆」。僕らは報道では「空爆」という名称でそれを見聞きするので、あまり大きく心を揺さぶられることはありません。しかし同様の意味でそれを「空襲」と書き換えたらどうでしょう。僕ら日本人は東京大空襲に代表される幾多の「空襲」を受けてきました。ですから中東での「空襲」と報道されたなら、逃げまどう子どもたちや、川に浮かぶ死体、焼けただれた死体の山を思い浮かべる人もいるのではないでしょうか。
 「空爆」と「空襲」、たったこれだけで、イメージされるものはまったく変わってくるのです。ですから僕らは「名称」について、もっと敏感になるべきです。「どうでもいい」というのは、知性を停止させた愚鈍な美辞に過ぎないのです。
 そして、「名称」というものは、誰かが付けているのだということ。この世の中には、名称を付ける側と付けられる側が存在しているのだということを、誰よりも障害福祉に関わる人たちは意識していなければならない。僕はそう考えています。
 そして、ひとつのニュースを目にしました。そこには「多機能トイレ」という文字が書かれていました。
 お読みになっていない方のために、一部抜粋して引用します。

多機能トイレでAV撮影か 身障者団体がメーカーに「強く自粛を要望します」

 車いすのまま入れるスペースや、乳幼児のおむつ交換シートなどを備えた「多機能トイレ」。バリアフリーな社会を目指して設置が進んでいるが、“目的外使用”の可能性が指摘されている。多機能トイレを利用したアダルトビデオ(AV)の存在から、カップルが室内で性行為を行っている疑いも否定しきれず、身体障害者団体がAVメーカー側に製作自粛を求める事態に発展している。モラルの在り方が問われそうだ。
■トイレから出てきたのはカップルだった
 中部地方に住む女性(50)の夫は(46)10年前、交通事故のため脳損傷を負った。高次脳機能障害と診断され、外出時は車いすを使う。排泄(はいせつ)や排尿の感覚にまひがあり、短時間に何度もトイレに行ってしまう。
 しかし、身障者用のトイレがふさがっていることが珍しくない。女性が特に疑問に思うのは、出てきたのが1人でないケースだ。
 「中からカップルが出てきたのを最初に見たときは、目が点になった。複数で入った人が、トイレ本来の目的のために使っているとは思えない。ふさがっているときに扉をたたいたらシーンとしてしまい、物音が一切しなくなったこともある。本当に困るからやめてほしい」
 複数で出てくるのはカップルに限らない。高校生らしい女の子ばかり3人とか、男性2人と女性1人だったこともある。
■「障害のない人が入っていても注意しづらい」
 女性が駅員さんに「トイレに入れなくて困る」と相談したら、返ってきたのは次のような困惑の言葉だった。
 「障害者用トイレが多機能トイレと呼ばれるようになって、誰でも利用できるようになった。障害のない人が入っていても注意しづらい」
 困るのは実は、時間のかかる複数での利用だけではない。健常者が「空いているから」と思って入った「ほんの数分」が、障害者には「待てない時間」だということはある。
 女性は「私自身、夫が障害を持つまで、『障害があると大変だ』と思ってはいても、何がどう大変かは分かっていなかった」とする。
 そのうえで、「待つことができない障害者はいる。能力が限られている中でも、本人はオムツは嫌だと思っている。広くてきれいで快適な多機能トイレを使いたい気持ちは分かるけれど、普通のトイレが使える人はぜひ、多機能トイレを、それしか使えない人のために空けておいてほしい」と訴えている。
■車いす利用者の9割「待たされたことある」
 問題の根底には、通常のトイレに比べて多機能トイレの数が少なく、需要に追いついていないという事情がある。
 国土交通省が平成24年に行った多機能トイレの使用実態を調査(車いす使用者105人対象)によると、トイレを使用しようとして「待たされたことがよくある」と回答した人は52%に上り半数を超えた。「たまにある」(41%)を加えると、9割以上が、トイレを使いたいときに利用できなかった経験を持っていることになる。
 多機能トイレの数が「十分足りている」「十分とはいえないが足りている」との回答したのは計18・1%。それに対して、「やや不足感がある」「とても不足している」は計75・2%に上った。
■「マナー違反では収まらない感情がある」
 多機能トイレの数が足りないことだけが問題なのではない。
 アダルトビデオに触発されたカップルがトイレ内で性行為に及んでいるのではないか−。
 使いたいときにトイレを使えないという事態が起こる背景に、そんな可能性を指摘する声もある。
 ビデオの中には、多機能トイレで撮影したとみられるものが散見される。こうしたビデオのまねをして、一部のカップルらがトイレを使っていることはありうるという。
 《多機能トイレを撮影場所とした作品の視聴者による模倣行為を助長・扇動する可能性を否定できません》
 27年5月。身体障害者に対してさまざまなサポートを行う「特定非営利活動法人ノアール」(川崎市)が、アダルトビデオメーカーに向けてインターネット上に公表した要望書は、その可能性に触れたものだ。
 《本来の多機能トイレとしての利用以外は、他のトイレで代用できない利用者にとってマナー違反では収まらない感情があります。(中略)企業倫理の観点から公の施設である多機能トイレでの撮影に関し、強く自粛を要望します》
 ただでさえ数がたりない多機能トイレ。その上、本来その場所で行うべきではない性行為が横行すれば、トイレの使いにくさに拍車を掛けることにもなる。利用者にとっては見過ごせない迷惑行為に当たるだろう。
 要望書は、メーカー側に法令順守(コンプライアンス)を訴える。
 《アダルトビデオメーカー様におかれましては、コンプライアンスに反するようなことを行わずとも素晴らしい作品が制作できると考えております》
 しかし、アダルトビデオメーカーからの反応はない。
(「産経新聞」2016年1月3日)


 みなさんは多機能ペンと言ったら、どのようなペンを思い浮かべるでしょうか。多くの場合それは、シャープペンとボールペンの両方が使えるペンだと思います。この時、多機能というのは、シャプペンとボールペンの二つの機能を表わしています。そしてそのいずれも、「ペン」であることに間違いはありません。
 では、多機能プリンターと言ったらどうでしょう。思い浮かべるのは、コピーやスキャナーなどの機能が付加されたプリンターのことではないでしょうか。その場合に表わされている多機能とは、「プリンター」だけではなく「コピー」「スキャナー」というその他の機能を含めているのです。
 さて、それでは多機能トイレは・・・。もし、多機能プリンターと同様の語法であるのなら、多機能トイレには「トイレ」以外の機能が存在することになります。と、するなら、それが「AV撮影現場」という機能だったり、あるいは「カツアゲ場」という機能だったりという可能性を残すことになるでしょう。この場合問題なのは、その機能が「トイレ」以外の「AV撮影現場」であるということではありません。「トイレ」以外の機能があるかのように受け止められる点が問題なのです。
 この「多機能トイレ」という言葉そのものが、こうした問題を内包している、おそらくは不的確な名称であることをまず明らかにしておきたいと思います。「多機能プリンター」のような語法がある以上、「トイレ」のみに機能を限定しているものについて「多機能トイレ」という名称は不的確だと考えます。

 しかし、僕が本当に問題にしたいのは、別の視点です。
 今度は「多機能ペン」の方を考えてみましょう。この場合の語法であるのなら、「多機能トイレ」という名称は間違っていないように見受けられます。
 が、はたしてそうでしょうか。「ペン」の種類として「シャープペン」と「ボールペン」があるように、「トイレ」の種類として「身体障害者に使いやすいトイレ」や「妊婦に使いやすいトイレ」「オストメイトに使いやすいトイレ」などがある。いっけん正しそうなのですが、なにか違和感を感じないでしょうか。
 最近はあまり使われなくなってきていますが同様のトイレを示す言葉で、「多目的トイレ」という名称があります。ここから考えをはじめたいと思います。「身体障害者に使いやすい」ということや「妊婦に使いやすい」ということ、そして「オストメイトに使いやすい」などということは、「多目的トイレ」においては「目的」にあたることです。
 では、その目的を使用する主語は誰なのでしょうか?
 「多機能ペン」においてその主語は、そのペンを使う人間です。多くの場合、それは個人です。たとえば僕という個人が「多機能ペン」を使い、書き直す必要のある文章にはシャープペン機能を使い、書き直さない文章にはボールペン機能を使う、といった具合に。
 これに対して「多目的トイレ」はどうでしょう。僕が身体障害者であった場合、そのトイレを使う時、それは身体障害者用トイレ以外の何者でもありません。考えにくいのですが僕が妊婦だった場合、そのトイレは身体障害者用トイレではなく、ただただ妊婦に使いやすいトイレであるだけなのです。「多機能ペン」の場合のように、主語である人間個人にとっての多機能性は、「多目的トイレ」には存在していないのです。したがって、語法として「多機能ペン」の使い方とも、異なっているといえるのです。
 では、何がどう違っているのか。明確なのは、その主語だろうと考えます。僕はいましがた「多目的トイレ」の主語を身体障害者や妊婦であるかのように使ったのですが、それが間違っているのです。「多目的トイレ」の主語は、通常のトイレの使用が困難な人たちではなく、そのトイレを設置した「政府(自治体の行政も含む)」なのでしょう。そして「多目的」が意味するところの目的の一つひとつが「身体障害者に使いやすいトイレ」であったり「妊婦に使いやすいトイレ」であったりする。そうしたいくつもの目的を持ったトイレを「政府」が使う、というわけです。それはもちろん「政府」自身が使うのではありません。「政府が」身体障害者や妊婦らのために設置、維持するという使用方法で使うのです。
 つまり「多目的トイレ」というのは、たとえば「障害者のためのトイレ」ではあったとしても、「障害者のトイレ」ではない。あくまでも障害者と呼ばれてしまう人たちの存在は、そのトイレにとっての「目的」に過ぎず、「主語」ではありえないのです。この点が「多機能ペン」を使う、使用者個人という主語とは、全く異なる点なのです。
 「多機能トイレ」も同様です。「多目的トイレ」の「目的」を「機能」に言い換えればいいだけのことです。どれだけ使用しても、そのトイレの「主語」は障害者と呼ばれてしまう人たちではないのです。

 「多機能トイレ」を使用する場面において、人間であるはずの存在が「目的」化し、その主格を喪失してしまうということ。変わる手段がなく、恒常的に「政府」が「障害者のため」に目的化した資源を使用させられているということ。僕はこれが障害者差別であり、それによる人間性の消失原因の一つなのだと考えています。
 差別という根源的な問題から視線を逸らしたとしても、「障害者のための〇〇」には、多くの不都合が生じるのです。
 例として「多機能トイレ」で考えてみましょう。まずその設置場所が「主語」である「政府」によって考えられているということ。たとえそれが「障害者のため」であったとしても、それはピンポイントでは重なってこない。「障害者のため」とはいっても、経済効率を優先させた上でのささやかな「障害者のため」という飾りであった場合、障害者が行きたいところではなく、消費者として来て欲しいところに設置される。この場合の直接の設置者は「政府」ではない場合が多いのですが、同じことだと思います。来てほしい場所に設置されることはそれはそれでよいのですが、かならずしも行きたい場所がそれと重なっているわけではない。たとえ設置されていたとしても、用具置き場になっていてトイレとしては使えなかった、などということは僕も何度も目にしてきました。公共施設という、行きたい場であるにもかかわらず、「多機能」であることをいいことに「AV撮影現場」よろしく「用具置き場」として市役所の職員が使っていた例もあるのです。
 また「障害者のために」作るので、その設置や維持に関する費用が「政府」の裁量次第となる点も問題です。そのためになかなか設置されない場所があったり、古くなったり壊れたり、汚れたりした「多目的トイレ」が修繕されないまま放置されていることも多いでしょう。
 今回の「AV撮影現場」としての使用について、「障害者のトイレ」であるのならば「俺たちのトイレで、そんなことをするな!」と強く怒ることもできると思います。しかし「障害者のためのトイレ」であるために、管理するべき主格の側(政府)は「障害者の使うトイレですから、AVの撮影はご遠慮ください」と正論を常識的に述べる程度になってしまいます。
 この人間の「目的」化という差別によって失われている大切な一つが、「怒る」という行為なのです。「障害者のための〇〇」が次々と誕生し、それらを便利に使いこなさせられているうちに、障害者と呼ばれてしまう人たちは「自分の〇〇」を失っていきます。「自分の〇〇」が無くなった者は、もう「自分の〇〇」のために怒ることができなくなるのです。

 ここからは、いつもの話です。「多機能トイレ」の持つ差別の様式は、それにとどまらず「多機能住まい」ともいうべきグループホームや、「多機能相談支援」など「障害者総合支援法」にも、そのまま見ることができます。その内容も、かける予算も、「政府」のさじ加減一つ。なぜなら「障害者総合支援法」は「政府」(そして国民)が使用者としての「主語」なのですから。「さまざまな障害者のために使う」という「目的・機能」のために、「政府・国民」が使うのが「障害者総合支援法」なのです。障害者と呼ばれる人たちが「障害者総合支援法」を使っているなどという幻想は、まかり間違っても抱くべきではないのです。障害者と呼ばれてしまう人たちは「目的」化されてそれを使用するうちに、次第に主格を消失していきます。そしていつか「怒り」をも失ってしまうのでしょう。
 「障害者虐待防止」や「障害者権利擁護」の法制度も同様です。それらは障害者と呼ばれてしまう人たちが求める、虐待のない社会や、権利が護られている世界を目指しているのではありません。おおむねそれと一致するとしても、目指しているのはあくまでも「政府」及び「大多数の国民」から見て、障害者がこんなふうに暮らしている姿が虐待も無く、権利が護られている、わたしたちにとって心休まる感じだな、とイメージされる社会に過ぎないのです。なぜなら「障害者虐待防止」や「障害者権利擁護」の法制度の主語は「政府・国民」なのですから。それらが究極目指している世界は「政府・国民」にとって、こんなふうに当たり障り無く美しい障害者でいてくれるお花畑に過ぎないのです。
 「障害者総合支援法」の現場において、そして「障害者虐待防止」や「障害者権利擁護」の現場において、何度も何度も「本人主体」とか「本人を真ん中において」とかという言葉が叫ばれます。なぜなのでしょう。答えは簡単です。もともとそれらの法制度とシステムが障害者と呼ばれてしまう人たちを「主語」にしていないのですから。だから、わざわざこれらのスローガンを付加しなければならないのです。そしてそれらのスローガンが、括弧付で一つの秘密を隠していることを忘れてはなりません。
 「(主語であるところの「政府・国民」に差し支えない範囲での)本人主体」
 「(主語であるところの「政府・国民」に差し支えない範囲で)本人を真ん中において」
 現場で真面目に取り組んだ人間であれば、実はこの括弧付には気がついているはずです。気がついているのに大半の輩は、括弧付を省略して綺麗なスローガンを叫び続け、飯を食っている・・・。
 「本人主体! 本人を真ん中において! なんて素晴らしいんだろう!!!」

 「多機能トイレ」については、最初に書いた理由から、名称を変えた方がよいとは思います。しかしそのことよりも、「多機能トイレ」という「障害者のための〇〇」の正体を理解して使っていくことが大切なのだと僕は考えています。
 同様に「障害者総合支援法」「障害者虐待防止」「障害者権利擁護」の各法制度、システムについても、それを拒絶するのではなく、その正体を理解した上で使って行くことが必要なのでしょう。そしてその関係職員については、その正体を理解した上でその労働をすること。そして正体を理解した場合に気がつく不都合について、知らん顔をしないこと。気づかぬふりをしたなら、そのツケは障害者と呼ばれてしまう人たちが一身を背負わされてしまうのです。

 論が逸れ、いつもの話の繰り返しになってしまいました。新年最初のブログなので、どうぞ、お許しください。
 「障害者総合支援法」「障害者虐待防止」「障害者権利擁護」によって生じる障害者差別。それから障害者と呼ばれてしまう人たちを護る手段があるとしたなら、僕はやはり「もうひとつ」をもとめ続けることなのだろうと思います。それはフェリックス・ガタリが言った、「別の場に立つ」ということ。

 精神医学改革のために持ち出された技術的手段としては先ず、病院内部の改革・人間化、作業療法、社交療法、責任感の意識化、療法クラブの創設……等々がありました。この結果、いくらかの効果はありましたが、それは精神医学の根本的な抑圧性を変えることはできなかったし、またそれほど有効なものではありませんでした。次に考えられたのは、病院外活動です。患者クラブ、患者の家庭訪問、患者たちのための保護工房……等といったものです。私としてはそれが全然効果のないものだったと言うつもりはありませんが、しかし不幸なことに、それはときとして抑圧の性質を変えながら、かえって抑圧を強化することになったと言わねばなりません。そのために、この種の活動は精神病院のミニチュア化と言われることにもなったのでした。
          
(中略)

「アルテルナティフ」というのはつまり別の場に立つ、精神医学の問題の外にでるということです。再び別の精神医学をやるということではなしに、別次元の解決を見出そうとすることです。
(『現代思想 1982年1月号 特集=現代フランスの思想』(青土社)
「シンポジウム 精神医学的状況」より)


 「障害者総合支援法」「障害者虐待防止」「障害者権利擁護」を捏ね繰り回して解決を見出すのではなく、ガタリが「精神医学の問題の外にでる・・・再び別の精神医学をやるということではなしに」と指摘しているように、「別次元の解決を見出そうとする」ことが重要なのです。
 僕においてそれは、何度も何度も繰り返しますが、たとえば「裕子さんとの暮らし」なのです。「障害者総合支援法」「障害者虐待防止」「障害者権利擁護」においては「目的」化されてしまう裕子さんですが、彼女が「主語」であり続けられる場を「再び別の総合支援法・虐待防止法・権利条約をやるのではなしに、別次元に見出す」ということ。
 「俺たち、一緒に暮らそうぜ!」
 裕子さんが、確実に主語の一人として存在している「俺たち」という世界。「政府」による制度やシステムとは別次元の・・・。
 これは「障害者総合支援法」の示す「(主語であるところの「政府・国民」に差し支えない範囲での)裕子さんの暮らし」ではなく、
 「障害者虐待防止」の示す「(主語であるところの「政府・国民」に差し支えない範囲での)裕子さんへの虐待防止」でもなく、
 「障害者権利擁護」の示す「(主語であるところの「政府・国民」に差し支えない範囲での)裕子さんの権利を護る」でもない。
 「別次元」とはつまり、「政府・国民」という主語から逃げること。たとえばそれが僕の場合には「俺たち」という別次元の「主語」なのです。
 そして僕のいう「もうひとつ」は「俺たち」という主語だけに生きるのではなく、「政府・国民」を主語とした法制度や仕組みも必要に応じて、使って行くということです。
 大切なことは、どれを選ぶかという択一を、障害者と呼ばれてしまう人たちに強制するのをやめることです。別次元にまで広がる「もうひとつ」を、常に創造し、提供し続けることなのだと僕は考えます。

 2016年のはじまりに、トイレの話からで恐縮ですが、年頭に記録しておくこととします。
posted by 五十嵐正人 at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 五十嵐の意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月30日

革命権もしくは抵抗権を日本国憲法に

 2015年9月19日午前3時になろうとしています。ほんの30分ほど前に、安全保障関連法が成立しました。
 僕はここ数年、表題にある考えを何かの形で書いておきたいと考えていました。そしてそれを何度も何度も実行に移し、しかし何度も何度も書き切ることができずに日々を過ごしてきました。書き切ることができなかった理由は、この内容が危険な要素を含んでいるからです。それは誤解されたら、という前提つきの危険ではなりません。論が正確に伝わったとしても、「革命権」「抵抗権」の行使そのものが、時として恐ろしく危険な結末に繋がりかねない可能性が予測されるからです。
 しかし安全保障関連法が成立したことで、すなわち「集団的」を含めて「自衛権」が法律上明文化された以上、「革命権」「抵抗権」の明記も必須になってくる。僕はそう考えています。ですから、このタイミングで書き切ることとしました。
 僕は日本国憲法に「革命権」もしくは「抵抗権」を明記するべきだと考えます。

憲法九条は護るべき

 民主主義国家としての成熟度という点を度外視しても、僕は憲法九条の改正には反対です。
 法律と権利の考え方には大きく二つの流れがあって、一つは法律に書かれていることがすべてであってそこに書かれていない権利は存在しないという考え方。もう一つは法律に書かれていなくても、より自然な権利は存在しているという考え方。僕は日本における法律と権利の考え方は後者だと理解しています。ですから「自衛権」と、これから書いていく「革命権」「抵抗権」は国内法に明記されていなくても存在していると考えています。
 多少の偏見を覚悟でいうなら、成文化されていないより自然な権利が存在するという考え方は、「言わずもがな」というような文化を持ってきた日本には合っているように思うのです。たとえそれがより完成された法律の概念に合致しなかったとしても、日本には日本的なものの考え方でいい場合もある。それが僕の考えです。
 ですから、僕は明確に憲法九条の改正には反対です。明記されていなくても「自衛権」は存在する。ただし、そこには「集団的」は含まれないし、まったく必要ない。これが僕の、憲法に対する最優先の考え方です。
 ところが安全保障関連法が成立してしまいました。僕はこの現行の憲法に抵触する恐れのある法律については、何らかの方法でその効力を無くす。もっともよいのは廃止することだと思っています。
 しかしそのためには、おそらく政府の構成が爆発的に大きく変わることが必要なのでしょう。現実には難しいのかなと思います。そうすると、残念なことに一部の資本家、とりもなおさず「防衛装備移転三原則」で潤う武器商人的企業や、アメリカとの相乗りでどこかの国家を焦土と化しその復興で儲ける企業などですが、そうした資本家の利益を保障する安全保障関連法の方が優先される。彼等の利益は、そこに群がる政治家の喜びに直結しているのですから。けっきょくのところ、安全保障関連法を活用して資本の蓄積をしたい人たちの思惑が優先され、その最大限の効果を阻む憲法九条の方が改正の方向に進むのだろうと、僕は絶望的な未来を予想しています。
 もし、本当にそうなってしまうのなら、つまりこれから憲法改正の議論が出てくるのであるなら、という前提つきで僕は日本国憲法に「革命権」「抵抗権」を明記することを提案するのです。
 本当は憲法改正はするべきではない。しかし憲法に「自衛権(集団的は論外)」が入ってくるのなら、「革命権」もしくは「抵抗権」も明記すべき、というのが僕の考えです。
 さて、それではこの「革命権」「抵抗権」とはどのようなものなのか、法律に浅学の僕の理解で恐縮なのですが、説明してみたいと思います。

国民の権利であり義務でもある「革命権」もしくは「抵抗権」

 こんなふうに考えるとイメージしやすいかな、と思います。
 他国が我が国を脅かしてきた時に、我が国がそれと闘う権利が「自衛権」。
 自国政府が国民を脅かしてきた時に、国民がそれと闘う権利が「革命権」「抵抗権」。

 ということです。「自衛権」と「革命権」「抵抗権」は、このようにセットで考えるとより明確になると僕は思っています。実際に行使される時は関連していない場合が多々あるのでしょうが、両者が関連する場合を想定すると見えやすくなる。一番明確なのは戦争状態であるのだろうと僕は考えます。
 太平洋戦争で日本は敗戦しました。それもあまりにも大きな犠牲を払っての敗戦です。二つの原爆を落とされ、いくつもの都市が空襲で焦土と化し、沖縄ではまったく戦況に無関係な玉砕が行われ、「多くの人」という言葉では言い尽くせない想像を絶する犠牲を払っての敗戦でした。もし、開戦する時点でこうなることが正確に予測されていたなら、開戦はなかったに違いないと思います。
 しかし、日本は開戦しました。その開戦に向かう思考の大きな一つが「自衛権」の行使ではなかったのでしょうか。当時の日本が置かれた資源、エネルギーの供給を国際的に断たれた状態。そこから生まれた自衛のための戦争という側面。先の安全保障関連法案の議論の中でもエネルギーを断たれた場合が想定されたことかありましたが、つまりそれは「自衛権」を身勝手に解釈することで、正当な権利行使と思い込むことができる要因なのです。ついでに書いておくならば、今後もエネルギーを断たれたことで安全保障関連法による「自衛権」か行使できるのだとしたなら、僕らは原爆が投下され、空襲で焦土と化し、玉砕を強要される結末にいたるような戦争を、学習能力が欠如したままふたたび行いうる、ということなのでしょう。
 論を戻します。「自衛権」は先の大戦のように暴走しますし、かりにまったく正当だったとしても、それによる結末が「正当な行使だった」ではすまされない甚大な犠牲を生むものだったとしたなら、はたして「自衛権」は行使されるべきでしょうか。先の大戦を例にとるなら、そんな犠牲を払うのなら、開戦ではなくもっと外交努力を重ねて打開の道を切り開いてほしいと国民が願うことができるべきだと思うのです。その究極の形が、「革命権」「抵抗権」の行使なのです。他国が侵略してきた時に、どんなことをしても、武力を持ってしても自国を守るために「自衛権」を行使するのと同じ理屈です。自国の政府が国民を破滅に導く方向に動こうとしたり、著しい権利侵害、横暴な民主主義破壊を行おうとしたりという時には、なんとしても場合によっては武力を持ってしてもそれを許さない、それが「革命権」「抵抗権」の行使なのです。
 最初に「革命権」「抵抗権」の行使についてその危険を書きましたが、それは武力を行使する場合もありえるということです。つまり「自衛権」の暴走と同様に「革命権」「抵抗権」にも暴走した場合の危険があるということを心にとめておいてください。
 さらに「革命権」「抵抗権」の理解を深めるために、それぞれに分けて例を示したいと思います。

 僕は「革命権」「抵抗権」を並べて書いていますが、まったく同じものというわけではありません。僕の中ではどちらもその歴史を辿っていくとジョン・ロックの考えに行き着くのですが、その実行された形を見ると明確な違いがあります。
 両者の違いを示す前に、ジョン・ロックの考えを簡単に引用しておきます。

 統治の目的は人類の善にある。そうであるとすれば、人民が暴政の際限のない意志にさらされることと、支配者が、その権力を濫用するようになり、それを人民の所有物の保全にではなく破壊に用いる際にはときとして抵抗を受ける場合とでは、どちらが人類にとって最善であろうか。

(「完訳 統治二論」ジョン・ロック著 加藤節訳 岩波文庫)

 このロックの考えが具現化された歴史が、アメリカ独立戦争、フランス革命などだとされています。この二つはどちらも「革命権」の行使された例だといえます。前者は当時アメリカ大陸を支配していたイギリス政府に対する革命権の行使。そして後者はフランス王室や貴族という支配者階級への革命権の行使です。アメリカ独立宣言の文章が「革命権」のなんたるかをよくしてしるので、引用しておきます。

 われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有するということ、である。もちろん、長年にわたり樹立されている政府を軽々しい一時的な理由で改造すべきではないことは思慮分別が示す通りである。従って、あらゆる経験が示すように、人類は、慣れ親しんでいる形態を廃止することによって自らの状況を正すよりも、弊害が耐えられるものである限りは、耐えようとする傾向がある。しかし、権力の乱用と権利の侵害が、常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らかであるときには、そのような政府を捨て去り、自らの将来の安全のために新たな保障の組織を作ることが、人民の権利であり義務である。

(「独立宣言」 ※「アメリカンセンターJapanと国内3都市(札幌・大阪・福岡)のアメリカンセンター・レファレンス資料室」によって運営されているサイト『About the USA』より引用)


 この最後の部分「しかし、権力の乱用と権利の侵害が、常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らかであるときには、そのような政府を捨て去り、自らの将来の安全のために新たな保障の組織を作ることが、人民の権利であり義務である」という部分は、「革命権」のとても分かりやすい説明の一つだろうと思います。
 一方「抵抗権」の例として僕が真っ先に思い浮かべるのは水俣病に対する住民の闘いです。
 石牟礼道子の「苦海浄土 わが水俣病」を例にすると、次の通りです。
 「昭和三十四年十一月二日」という章には、当初の陳情やデモが秩序をもったものであることが書かれています。それは、国会議員に実態をしってもらって、議会制民主主義のシステムの中で問題を解決してもらおうという運動でした。この段階では、陳情もデモも「抵抗権」の行使ではないと考えます。
 しかし、それはすぐに無秩序な暴動に変わりました。
 そこにいたるまでには日本政府や熊本県の怠惰ともいえる対応がありました。

 厚生省に行ってみると、「魚の有毒化したのを食わんようにするのは−−大体三十一年には魚を食うてなるとわかっとったですから−−うちの仕事ですが、それから先の魚の販売のことは、農林省の管轄です」という。じゃ、こういう毒魚、いや何か詩らんが、工場があって汚水を流すから、流れんごとしてくれ、取り締まってくれと、厚生省の環境衛生あたりでいえば、「それはもう通産省の管轄だ」という。結局どこし行っても、これは農林省、これは通産省、たとえば、水俣病の研究費のことをきけば、それは文部省という工合で、いざもらう先は大蔵省ちゅうし、馴れん田舎者がですね、五つの省にまたがって、廻される始末でした。

(「苦海浄土 わが水俣病」石牟礼道子 講談社)

 こうした政府の怠惰な対応の末に、デモは逮捕者を出す暴動へと変わっていきました。

 衆議院の水俣病調査団が水俣市に着いた二日、不知火海沿岸漁民約二千人と警官隊三百人が新日窒水俣工場で激突、漁民の血が、警官の血が流された。問題は漁民と工場の関係だが、この最悪事態は避けられなかったのだろうか。

(「苦海浄土 わが水俣病」)


 この暴動の直接の矛先は水俣病の原因物質を流す工場であったのでしょう。しかし、少なくとも昭和31年には原因が分かっていたにもかかわらず、たらい回しにし続けてきた政府の怠慢が見逃されてよいはずはありません。先のアメリカ独立宣言の文章を思い出してみてください。
 「しかし、権力の乱用と権利の侵害が、常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らかであるときには、そのような政府を捨て去り、自らの将来の安全のために新たな保障の組織を作ることが、人民の権利であり義務である」
 次々と住民が発病し、亡くなっていった。それでも政府に捨ておかれていた状態は、「権力の乱用と権利の侵害が、常に同じ目標に向けて長期にわたって続き」以外のなにものでもありません。
 僕は、この暴動に「抵抗権」を見るのです。
 少なくとも僕は、この民主主義に反すると言われかねない暴動を、非民主的だと切り捨てる気にはならないのです。彼らに対して「発病しても死んでも、選挙で選んだ議会制民主主義の結果だから、暴動はだめだよ」などと諭すことが正義だとはまったく思えないのです。むしろ、この暴動にこそ民主主義を感じてしまう。この暴動が示しているのは「選挙が象徴する議会制民主主義に従うことが民主主義」なのではなく、「選挙という民主主義の手続きによって選ばれ承認された権力が非民主的な間違いを犯している時には、選んだ民衆自身が責任をもってそれを是正することが民主主義」なのだという真実ではないでしょうか。
 アメリカ独立宣言において「革命権」が「人民の権利であり義務である」とされたのと同様に、「抵抗権」もまた「権利であり義務でもある」のでしょう。
 そしてもちろん、無秩序に行使されるべきものではないと僕は考えます。たとえ行使の形が無秩序な暴動であったとしても。「苦海浄土 わが水俣病」は、「抵抗権」を行使した漁民の思いを伝えています。

 銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、四十二人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。それでよか。

(「苦海浄土 わが水俣病」)

 こんなにも平等で、バランスのとられた主張が、他にあるでしょうか。過分の暴力を振るおうというのではなく、過不足ない対応を求めているのです。呪術という抵抗手段に実効性があったなら、これはもっともバランスのとれた「抵抗権」の行使だろうと思うのです。「抵抗権」は被っている権利の侵害などに対して、過度なものでもいけないし、不足なものであってもいけない。僕は水俣病を巡る暴動に、正当な「抵抗権」の行使を見るのです。
 現在の日本の中で「抵抗権」の行使を探すなら、僕は沖縄の基地問題への県民の闘いをあげたいと思います。争点となっている基地移設の問題は、それだけを切り取って論じられるものではありません。在日米軍基地の約75パーセントをずっと押しつけられ、米軍機の墜落事故に怯え、さらには日米地位協定のもとで犯罪に脅かされ続けている状況は、やはり「権力の乱用と権利の侵害が、常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らかであるとき」にあたると思います。沖縄県民の基地移転にともなう新たな基地建設への抵抗は、それが今まで以上の暴動になったとしても、正当な「抵抗権」の行使だと僕は考えます。
 この運動が、いつか沖縄の日本からの独立に繋がったとしても、それは正当な「革命権」の行使であるのでしょう。僕はそれを否定する民主主義的論拠を、一切持ちあわせてはいないのです。
 このように「抵抗権」と「革命権」は地続きの場合もあって、それだけに区別しにくいものでもあるのですが、同じものとして括ることもできない、それぞれ別の権利なのです。

抑止力としての「革命権」「抵抗権」

 「革命権」「抵抗権」は、このように時として血を流すことをも厭わず行使されるものです。先の大戦の例でいうなら、原爆を投下され空襲を受け、玉砕を強いられるくらいなら、開戦前に開戦を主張する政府要人をすべて暗殺してでも戦争を避けた方がよかったという「抵抗権」がありえるということてす。あるいはドイツではヒットラーがでて、ユダヤ人の虐殺を行いました。水俣病の呪いにしたがって言うなら、一人目のユダヤ人がガス室に送られた時点で、ヒットラー一人を殺してその後の虐殺を防ぐという「抵抗権」の行使は、まったく正当なものだと、僕には思えます。
 もちろん「革命権」「抵抗権」の行使の方法は、暴力的、あるいは血なまぐさいものだけとはかぎりません。平和な手法もありえるのでしょう。しかしそう考えて暴力性を薄めて「革命権」「抵抗権」を考えるよりも、武力を持っての抵抗も辞さないという危険性をしっかりと認識して「革命権」「抵抗権」を理解した方がよいと思います。
 そんな「革命権」「抵抗権」ですが、僕はその最大の効果は、実際の行使よりも抑止力にあると考えています。安全保障関連法によって世界最強のアメリカと集団的自衛権というタッグを組むことが抑止力となりアジアの平和が守られるという理屈。そこで使われるのと同じ単語である、抑止力です。
 今回の安全保障関連法が成立する過程で、反対のデモが全国各地で繰り広げられました。このデモは、それがデモであるかぎりにおいて、議会制民主主義の範囲内の反対運動です。議会制民主主義で選ばれた政府が間違いを犯した時にそれと闘う「革命権」や「抵抗権」の行使ではありません。そのためか、政府は一種の産みの苦しみ程度にしかデモを見ていない感じがありました。デモがあっても、法案は成立する。さらに言うなら、どんな法案であったとしても、それが国民を危険に晒す非民主的な法案であったとしても、デモ以上の抵抗手段がないかぎり、デモさえやり過ごせばいい。言い方を変えるなら、デモさえももはや、審議会や公聴会のような、国民の声を聴いていますよ的なセレモニーとしてしか政府は考えていないのかもしれません。それをやり過ごすことで、逆に国民からのお墨付きをもらったみたいな感覚でさえあるのかもしれないのです。
 これはアメリカでかつて行われたヴェトナム戦争反対のデモとは、まったく異質なものだといえるでしょう。参加者の盛り上がりは同じように真摯なものであったとしても、ヴェトナム反戦デモの場合には、後にヴェトナムからアメリカが撤退するという結末がもたらされました。もちろん、それはデモだけの成果ではありません。しかしデモに参加した民衆にも、そしてそのデモを受け止める政府側にも、日本のデモとはことなる何かがあったのだと、僕には思えてなりません。日本のデモには存在しない、その後ろに控えている「革命権」「抵抗権」という抑止力がそれなのではないかと考えます。
 アメリカはおそらく日本同様、憲法にあたるものに「革命権」「抵抗権」を明記していないのだろうと思います。しかし現在のアメリカそのものが「革命権」の行使によって成立しているという歴史を持っています。明記していなかったとしても、他の誰よりも民衆の抵抗する力の大きさを知っているのがアメリカ合衆国政府自身なのではないか。デモをしょせんデモだとあなどっていたなら、その後に「革命権」もしくは「抵抗権」の行使というとてつもなく巨大な抵抗がまっているということ。それを歴史の中に持っているアメリカにおけるデモは、日本のそれとは根本的に異質なのではないでしょうか。デモを単なるセレモニーだとたかをくくった時、日本の場合には政府の思惑通りの法案成立がまっていても、アメリカの場合には「革命権」「抵抗権」の行使が待っている。その違いです。
 けっして日本のデモのやり方が悪いのではなく、デモ参加者の人数が少ないのでもない。デモの後ろに「革命権」「抵抗権」という、政府の蛮行に対する抑止力が日本には存在していないということなのだろうと、僕は思うのです。
 実際には、「革命権」「抵抗権」は行使されない方がいい。しかし「これ以上の政府の蛮行に対しては行使する」というリアリティがなければ、抑止力にはならない。それが抑止力にならなければ議会制民主主義の範疇での平和な反対運動が、政府にとってはセレモニー以上の効果を持ち得ない。
 だから、僕は憲法が改正されるなら、「革命権」「抵抗権」を憲法に明記することを望むのです。
 先に書いたイメージを再掲します。
 他国が我が国を脅かしてきた時に、我が国がそれと闘う権利が「自衛権」。
 自国政府が国民を脅かしてきた時に、国民がそれと闘う権利が「革命権」「抵抗権」。
 そして加えて書くなら、
 「自衛権」の憲法明記は、我が国が他国に脅かされないための抑止力になる。
 「革命権」「抵抗権」の憲法明記は、国民が自国政府に脅かされないための抑止力になる。
 最初に書いた通り、僕は法律に書かれたことが権利のすべてだとは考えていません。しかし、これは日本人全体のコンセンサスでは無いようです。法律に書かれたことが権利のすべてだと考えている人もきっといるのでしょうし、それ以上に自身の権利を自ら法律で縛っている人も多くいます。僕は障害福祉に関する仕事をしていますが、この世界には憲法に明記されている「生存権」や「基本的人権」よりも「障害者総合支援法」の方を優先する、不可思議な非民主主義的な人が大勢います。それらの人たちは多くの場合、目の前で起きている障害者と呼ばれる人の苦悩している姿よりも、対応マニュアルを優先します。残念ながら、マニュアル化が異質かつ異常に進行してしまっているこの国においては、もう「言わずもがな」というような感覚は成立しないのかもしれません。安全保障関連法が成文法として明記されてしまった今、この戦争マニュアルの方が憲法九条よりも優先されるであろうことは想像に難くありません。ですから、憲法に「自衛権」が明記される改正が行われるならば、「革命権」もしくは「抵抗権」の明記も必要なのです。
 「革命権」「抵抗権」が抑止力として存在していないまま、軍隊が整備されていく未来、それはおそらく太平洋戦争前夜と同じようなものなのではないでしょうか。一部の国民が反対の平和的行動を起こしたとしても、そのセレモニーを産みの苦しみだとうそぶきながら、政府は治安維持法のような法律を通していく。それが通ってしまったら、もう抵抗したくてもできないのです。
 デモに代表されるような反対運動と、「革命権」「抵抗権」をもう一度整理しておきます。
 デモなどは、民主主義の手続きとして承認されている多数決の原則に基づく議会制民主主義の範囲内の手法です。そのため法律を逸脱しないように秩序だって行われます。直接的に国家の方針を決めていくようなものではなく、政府や議会、議員等に思いを伝え、議会制民主主義にのっとって、政府等の過ちを正そうという性質のものです。イメージとしては民主主義の原則であるところの多数決の中にある反対運動の手続きです。
 一方「革命権」「抵抗権」は多数決の原則によって選ばれた政府などが非民主的な暴政を行う時に、その選択をしてしまった責任において、義務としてもそれを正す、正さなければならない権利です。民主的な手続きであるところの多数決によって成立している政府の暴政と闘うことになるので、それは場合によっては民主的な手続きをとらない手法になります。具体的には武力の行使も含むもので、多数決の原則と並んで存在する民主主義実現の手法だといえます。民主主義という大きな存在の中に、二つの手法として「多数決」と、「革命権」「抵抗権」が並んでいるイメージで、僕は捉えています。
 この二つがあることで、民主主義及び国民は、政府の横暴から、より安全に守られるということなのです。デモだけでは、横暴を止めることはできません。「革命権」「抵抗権」だけでは、横暴を止めることはできても安心な社会は訪れないでしょう。政府を多数決の原則によって選び、その政府が暴挙に出る時には、その芽が小さい段階で国民はデモなどの民主的手段で反対をする。その背景に抑止力として「革命権」「抵抗権」が存在することで、政府にデモなどの反対運動をセレモニー化させない。そしてどうしてもどうしても防ぐことができない暴挙が行われる時には、国民は民主主義を守る義務としても「革命権」「抵抗権」は行使しなければならない。
 僕は、こういうことなのだと思います。

「革命権」「抵抗権」について考えはじめること

 しかし、反対も多いことでしょう。まず、民主主義とは多数決の原則がすべてだ、と考える国民が多くいるということ。僕は多数決は民主主義の本質ではなく原則に過ぎないと考えています。民主主義の原理は補完性だと考えているのですが、みんながそう思っているわけではありません。
 考えてみてください。多数決が民主主義そのものである場合、その結果が非民主主義になった時の説明がつかなくなるのです。たとえばヒットラーは選挙で選ばれて出てきて、ユダヤ人や障害者と呼ばれる人たちなどの大虐殺を行ったという事実。もし多数決が民主主義そのものだとするのなら、ヒットラーを選んだという民主的手続と、その結果として生じたユダヤ人などの大虐殺という非民主主義の行為との整合性がつかないのです。そのさいにも、多数決という民主的な手法で選ばれたヒットラーが行ったのだから、ユダヤ人等の大虐殺も民主主義的行為だという論になるのでしょうか。これはもはや、正常な思考とは思えません。
 別の点からも言うなら、議会制民主主義において多数決で選ばれるのは、議員という人間です。しかし、人間である以上、間違いをおかすし、当選後に大きく考えを変える場合もあります。その時に、リコールという手法はありますが、それはデモと同じで、背景に抑止力がなければ、およそ効果を持たないことでしょう。さらにリコールも計算に入れて、選挙の段階で候補者が周到な計画の元で、国民に嘘を付くことで当選した場合。騙されるのも民主主義、と考えることは、僕にはできないのです。
 多数決はあくまでも民主主義の原則に過ぎず、民主主義を保障するものではない。それが間違った選択である場合には、その間違いを選んでしまった有権者が責任をもってその間違いを正すということが民主主義なのではないか。
 こうしたことも含んで、「革命権」「抵抗権」は、まずなによりも、その実体や行使のあり方について、国民的な規模で話し合われなければならないと、僕は考えています。
 アメリカやフランスは、その歴史の中に「革命権」の行使という過去を持っています。ですから成文化されなくても国家の精神の中にそれはあるのでしょう。しかし日本にはそれがありません。したがって憲法に明記しただけでは、それをいかすことはできないのです。
 「革命権」であれ「抵抗権」であれ、場合によっては明記が叶わなかったとしても、僕らは歴史に持たない分、それを埋める努力をしなければならないと考えます。
 安全保障関連法案については、国会という場が中心となってその行使等についての議論がされました。「革命権」「抵抗権」についても、「自衛権」同様、暴力的行為の可能性を強く含んでいる以上、その憲法明記までには国会での激しい議論が必要になることでしょう。しかし、それ以前に「革命権」「抵抗権」は国民側の持つ権利であることをわすれてはなりません。おそらくそれは、国会での議論を終着点として、何よりもまず僕ら国民の暮らす平場での議論からはじまるものであるべきだと思います。それは井戸端会議や知人、家族などの間での会話からはじまり、集会や研究会やシンポジウムなどに発展していくことが理想なのでしょう。ただし、僕も含めて、一般の市民には「革命権」「抵抗権」への知識が充分にはありません。そこを補う情報の提供が、「革命権」「抵抗権」に詳しい思想家や学者などから必要となります。インターネット上で、あるいは対面で聞くことのできる、明治維新前の私塾のような場。そうした平場での議論の成熟の先に国会での議論がなされることが望ましいと考えます。
 ただ、憲法九条を変更することを狙った憲法改正のスピードに、それが間に合うかどうかという危惧はあるのですが。

近代国家におけるルールとしての「革命権」「抵抗権」

 ここまで、日本国内の視点で「革命権」「抵抗権」を論じてきました。最後に国際的な視点から、その必要性を明らかにして終わりたいと思います。
 「革命権」「抵抗権」が成文化されている国は、まだほとんど無いようです。しかし皆無というわけではなく、ドイツの基本法には「抵抗権」が明文化されていると聞きました。調べてみると、下記の通りです。

(1) ドイツ連邦共和国は、民主的かつ社会的連邦国家である。
(2) すべての国家権力は、国民より発する。国家権力は、国民により、選挙および投票によって、ならびに立法、執行権および司法の特別の機関を通じて行使される。
(3) 立法は、憲法的秩序に拘束され、執行権および司法は、法律および法に拘束される。
(4) すべてのドイツ人は、この秩序を除去しようと企てる何人に対しても、他の救済手段が存在しないときは、抵抗権を有する。

(「ドイツ連邦共和国基本法の基本理念を破壊する政治行動に対する抵抗権(第20条4項)」 Wikipedia「抵抗権」より)
 
 ドイツの「抵抗権」は1968年にドイツ連邦共和国基本法に追加制定され、現在でも効力を持っているとのことです。
 僕にはドイツという、ヒットラーを生んだ国において「抵抗権」が成文化されていることを、ただの偶然とは思えません。
 今日のようにいくつかの国で核兵器が保有され、一つの国家の軍事的な暴走が世界を破滅させかねない状況においては、その暴走をその国の国民がどんなことをしてでも止める手段を持つということが、国際的なマナーとして、あるいはできることならルールとして必要なのではないでしょうか。
 「革命権」「抵抗権」は、このように近代国家においては、軍備の保有をともなう「自衛権」とセットで存在していなければならないものだと考えます。

 何度も何度も繰り返します。
 僕は憲法改正をせず、安全保障関連法が廃止されることを望みます。
 しかしそれがなされずに憲法改正になるのなら、それによって予測される政府の暴走を国民が権利として、そして義務として抑える「革命権」もしくは「抵抗権」の憲法への明記を求めます。
 そしてそのために、僕ら国民の一人ひとりが、この危険な権利及び、その保有、行使について真剣に考えはじめる必要があると思っています。
posted by 五十嵐正人 at 19:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 五十嵐の意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月13日

神戸児童連続殺傷事件加害者の手記出版について思うこと

ここのところ、あまりにも忙しくブログの更新ができずにいました。ブログの長い原稿を書く時間が作れなかったからです。そのため、比較的短い文章で書くことができるFacebookを使うことが多くなっています。
今も、ブログ用の原稿を書く時間をとれずにいるのですが、一つブログに書いておきたいことかあって久しぶりの更新となりました。Facebookに書いた記事の再掲という形になります。

Facebookの記事は、2015年6月11日に書いたもので、gooニュース(毎日新聞)の記事「<神戸児童連続殺傷>「少年A」事件を手記に 抗議電話も」(06月10日 21:56)をリンクしました。このgooニュースの記事は、下記です。
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/entertainment/mainichi-20150611k0000m040103000c.html

以下、このニュースをリンクしてのFacebookの記事、そしてその記事のコメント欄に追記した文章などを書いていきます。これらは「ですます」と「である」が使い分けられていないのですが、そのまま掲載します。
読みづらいかと思いますが、ご了承ください。


実物の本を読んでいないので、記事からの推測なのだけれど・・・。
「本を書く以外に、社会の中で罪を背負って生きられる居場所を見つけることができませんでした」と、記事にある。この思いについて、僕は懐疑的だ。
「本を書く」という行為によって「社会の中で罪を背負って生きられる居場所を見つけること」ができるのならば、何も出版する必要はないのだろう。294ページにおよぶ手記を、写経のように誰に見せるためでもなく、自分自身と向き合って書けばいい。もし誰かに伝えるためだとしたなら自分が手をかけた少年の魂に向けてのみ書けばいい。「本を書く」ならば、読者は必要ないし、出版の必要もないはずだ。
「本を書く」ではなく「誰かに読んでもらう」ことで、ということなら辻褄は合わなくもないが、その場合問題なのは「社会の中で罪を背負って生きられる居場所を見つけること」のために、人々が読者になってくれると加害者自身が思い込んでいるということ。そんなことは、人々の手を借りる以前に、自分でなんとかしようとすべきことではないのだろうか。
もちろん罪を償った人に対して、社会は差別をするべきではないと思う。だからこれは一般論として書くのだが、「自分の居場所を見つけたい僕のために、この本をみんな読んでね」、というのは考えが甘過ぎるのではないか。ゆえに「誰かに読んでもらう」という他者への甘えで「社会の中で罪を背負って生きられる居場所を見つけること」ができるという発想には、実効性に疑問を感じざるをえない。
それに「誰かに読んでもらう」のなら、出版する必要はなく、その誰かに原稿を回覧するなり、その誰かが不特定多数ならばインターネットにアップすればいいだけだ。それにはお金がかかったりするだろうが、そういうことについて自身で取り組む努力が、むしろ自分の居場所を作る行為であるように思う。
そして「本を書く」でも「誰かに読んでもらう」でもなく「出版する」ことが「社会の中で罪を背負って生きられる居場所を見つけること」なのだとしたら、それは「罪を背負っているために定職につけない、よって生活費がまかなえないので印税生活を生きられる居場所にしたい」ということなのか。それならば、作家としての技量を磨き、まったく異なるテーマの作品を出版すればいい。
被害者遺族を苦しめることになっても、印税生活をしたいというのであれば、あまりにも自分本位過ぎないだろうか。作家としての技量を磨く努力をスルーして一番売れそうなネタを書いちゃえ、というのならなおさらだ。
「本を書く」ということの正体が「誰かに読んでもらう」なのか「出版する」なのか、いずれにしても読むほどの価値があるとは思えない。

そして出版社のコメント。
「どのような心理状態で罪を犯したのか何年もかけて書いており、読まれるべき内容と考えた。反発やおしかりも覚悟している」
もちろん、売るための販売促進コメントなのだろう。
人間が人間である以上、自分自身の行った行為であったとしても、その心理状態を正確に認識し書き切ることは不可能だ。そこに書かれているのは、せいぜい加害者自身が「自分はこういう心理状態だったと思う」という程度のことであり、それは事件の裁判に関わった人達一人ひとりがそれぞれに「加害者の心理状態はこうだったのだろう」と分析することとなんら変わらない。もっというなら事件が発覚し加害者が逮捕された時に、ニュースで知った国民の一人ひとりが勝手に「加害者の心理状態はこうだったのだろう」と想像することと大差ないのだ。
加害者が自分自身の心理状態を書いたというのは、単なる「加害者が」というプレミア感を持っているだけで、真実云々とはまったく無関係なことである。むしろ自分自身だからこそ、場合によっては真実から遠ざかると考えた方が正しい気がする。加害者自身が書いているその心理状態は、おそらく嘘であり、百歩譲ってもおそらく真実ではない。

もちろん真実云々を度返しして、「加害者が」というプレミア感に浸りたい人が買って、出版社と、加害者の居場所づくり資金に貢献することが自由であることを、最後に書き添えておく。

この記事には、お読みくださった方からいくつかのコメントをいただきました。それに返信するように、僕がコメント欄に書き加えた文章を、再掲します。いただいたコメントについてはここには記載いたしません。


テレビのニュース番組でも、取り上げられていました。明日にはワイドショーでも話題にさせるのでしょう。
僕らの覗き見趣味は、加害者が殺した様子やその心情を覗き見するつもりなのでしょう。しかしそれは被害者が殺される様子や、殺される時の加害者の心情でもあることを忘れてはいけないのだと・・・。
殺された被害者は、ここでも喪失されてしまっている。件の本を読もうという人には、被害者の許しを得ずにその人が殺されたことを覗き見するのだという自覚を持ってほしい、などと思います。

けっきょく、たくさん売れて、殺された被害者は大勢に覗き見られるのでしょう。

次の文章は、事件の被害者である彩花さんのお母さんが出した、今回の出版についてのコメントを読んだ以降のものです。
「神戸連続児童殺傷 「何のため手記出版か」彩花ちゃんの母コメント全文」(06月10日 19:16)gooニュース(神戸新聞NEXT)
http://news.goo.ne.jp/article/kobe/nation/kobe-20150610013.html


彩花さんのお母さんのコメント、加害者と出版社はどう聞くのでしょう。
お母さんのコメントの中に、加害者の出版の動機として「自分の物語を自分の言葉で書いてみたい衝動に駆られた」という、おそらく加害者自身の言葉が引用されています。
「衝動に駆られた」としても、それが誰かを傷つけたり、殺してしまうような場合には、実行に移してはいけない。それを学んで、出所してきたのではないのでしょうか。
今でも、殺したいという衝動に駆られたなら殺す感覚のままなのでしょうか。
もし自身の衝動を抑えることの大切さを身につけて出所してきたのなら、即刻、絶版にして、出版社とともに回収につとめるべきです。

僕のこんなコメントは加害者には届かないのだろうけれど・・・。
ご遺族は、あなたの衝動に駆られた行動に傷ついています。あなたは人を傷つけても殺しても衝動を抑える気のない、あの時のままなのでしょうか。

Facebookのコメント欄に書き加えた、現状最後の書き込みです。


その後、ニュースなどで街の人達の反応を観ていて思ったのですが、事件の起きた時のままで意識が止まっている人が多くいるような気がします。
加害者はもういい大人の年齢なのですが、そうした人々の意識の中では「少年A」のまま。事件当時少年法で守られた(少年法そのものを否定するわけではありませんが・・・)ように、今回の出版という衝動についても、どこか少年を保護するような感覚でとらえている人達が少なからずいるような・・・。

今回こうしてFacebookに書いたことを、のちほどブログにまとめてみようかと思っています。

僕がFacebookで書いたことは、上記の通りです。自分がなぜ加害者の書いた手記を読みたいと思わないのか、そして読む価値がないと考えているのか、それを明らかにすることからはじまって、いろいろ書き加えてきました。
あるいは、「読んでいないのに、なぜ読む価値がないと判断するのか」という批判もあるかもしれません。しかしこの批判には、読むかどうかを判断することを読んでから決めるという矛盾があります。限られた時間なのに、目の前には一生かかっても読みきれない数の書籍があります。その中でどれを読むかの判断は、どうしても読む前に行わなければなりません。ですから、「なぜ読まないのか」の説明を、読んでいない状態で行うことは、とても自然なことなのだと思います。

最後に、二点、追記しておきます。加害者の本そのものに直接関わることではないのですが。ここまで、だいぶ長くなっているので、重要なテーマではあるのですが、簡単にまとめるにとどめたいと思います。


『今回の加害者の手記出版を、社会問題(とりわけ出所した犯罪者の社会復帰困難の問題)にするべきではない』
 おそらくですが、今回の手記を巡っては、しばらくの間メディアを舞台に賛否両論が繰り広げられることと思います。その過程で予測される主張の一つが、「出版停止や本の回収は出所した犯罪者の社会復帰を困難にするものだ」という考え方です。僕はこの意見に与しません。
 理由の第一は、僕が知る限り、加害者自身が社会復帰が困難であるために助けてほしいという意思表示をしていない、という点です。Facebookに最初にリンクしたニュースには「本を書く以外に、社会の中で罪を背負って生きられる居場所を見つけることができませんでした」とありますが、これが社会の偏見などによる(つまりは外的要因による)社会復帰の困難であるのなら、もっと直接的にそう主張するべきだと思います。僕がこのセリフから感じるのは偏見や差別などの外的要因ではなく、加害者本人の内的な心の問題です。少なくとも、加害者が社会復帰に困難をきたしていて、みんなに偏見と差別をやめてくれと訴えているようには思えないのです。
 あるいは、この本を読めばそれが書かれているのかもしれませんが、だとしたならこの加害者が社会復帰できずにいる状況は、比較的呑気なものなのでしょう。僕らが加害者の困難を知るためには、労働して得た貴重な収入から本の購入費を捻出し、一ページ一ページ捲って、一文字一文字を読んで、294ページを読みきらなければならないことになります。しかも、社会のみんなが読んでくれるという保証もない。加害者は、みんなが読んでくれて、自分の社会復帰を助けてくれるものだと思い込んでいるのでしょうか。偏見と差別からくる社会復帰の困難を叫んでいるとしたなら、あまり有効な方法とは思えないのです。
 そして、僕は加害者が手記を出版したということ自体を社会問題として扱うべきではないと思っています。
 かりに、これが偏見や差別による出所した犯罪者の社会復帰困難の問題だと論じられた場合、その根底にはあの常軌を逸した衝撃的な殺人事件であるというプレミア感があるのでしょう。ちょっとした窃盗や万引き(それらももちろん許されない犯罪ですが)だった場合でも、それが知られたら偏見や差別がつきまとい社会復帰は困難になるでしょう。しかし、そんな犯罪を過去に犯した人が手記を書いたとしても、こんなには盛り上がらないのです。そこで、僕が思い出すのは、チャップリンが映画「殺人狂時代」の中で言ったセリフです。
 「1人殺せば悪党で100万人だと英雄です。数が殺人を神聖にする」
 これは殺した人数について言っているのですが、犯罪の凶悪さや異常さなどに置き換えても、同じことが言えるのではないでしょうか。恐ろしいのは、この点にあります。
 今回の加害者の手記の出版は、加害者自身と出版社だけではなく、その周辺(主にメディアや評論家等)に利益をもたらします。一つの市場が誕生するのです。それがつまり、この加害者の手記出版を社会問題にするということなのです。
 「ささいな犯罪を犯す犯罪者は悪党で、常軌を逸した猟奇的殺人は犯罪者を神聖にする」
 この「神聖にする」手助けを、社会的問題にすることで市場に群がったメディアや評論家が行うのです。
 だから、僕は今回の加害者の手記出版を社会的問題にしてはならないと思っています。あの事件をリアルタイムで知って、被害者に涙し、凶悪な犯行に憎悪と吐き気を感じた世代の人達は大丈夫だと思います。しかしその後の、リアルタイムで知らない世代の人達の中には、社会問題化されることで被害者を本当に神聖と感じたり、ヒーローと崇めるような者たちが出てこないとも限りません。恐ろしいことですが、世界に名を残す猟奇的殺人者の中には、一部のマニアにヒーローとして崇められている例もあるのです。それに憧れて犯罪を犯す人もいないとは限りません。
 加害者が、偏見と差別による社会復帰困難を直接に訴え、助けを求めているのなら、法整備なども含めて社会として考える必要はあると思います。しかし、僕にはそれが感じ取れません。ですから、僕は今回の出版については、
 「自分の物語を自分の言葉で書いてみたい衝動に駆られた」としても、それが誰かを傷つけたりするのであれば、実行に移してはいけない。
 という、あくまでも加害者個人の行動についての戒め、として考えるのです。それ以上でも、ましてや社会問題でもなく。
 いちおう書いておきますが、社会問題としてある犯罪を犯した人達への偏見や社会復帰困難については、今回の手記出版とはまったく関係なく、議論し改善されるべきだと思っています。

『「表現の自由」と「自由な表現、自由に表現」』
 もう一つ、出てくるかもしれない議論は加害者の手記についてそれが「表現の自由」だという議論です。
 これについても、僕は懐疑的です。
 今年の1月にあったシャルリーエブド襲撃事件を覚えているでしょうか。イスラム教で崇拝されるムハンマドをモチーフにした風刺画を掲載した雑誌の編集者らが襲撃された事件です。あの時に、このブログに記事を書こうと思ったのですが、書き切れず断念しました。その時に書こうと思ったのが、「表現の自由」と「自由な表現、自由に表現」の違いです。
 あくまでも僕の認識ですが、この世の中にあるすべての「表現」は「表現の自由」を持っているわけではありません。「表現の自由」というのは物質のようにそこにあるのではなく、存在している「表現」に付加されるものなのだと、僕は考えているのです。
 少しばかり乱暴なのですが、わかりやすいかと思うので、「表現」を「暴力」に置き換えてみます。
 教室で子どもたちの間にイジメがあったとします。その時、いじめられている子どもを叩くいじめっ子たちの行為は「暴力の自由」でしょうか。僕は違うと思います。いじめっ子たちは「自由な暴力を自由に」ふるっているのです。言い方をかえるなら、それは好き勝手に暴力をふるっているのです。
 これに対して、いじめられている子どもが、「僕だってやられているだけじゃないんだ」と反撃に出たとき、もしも「暴力の自由」という言葉があるなら、それは「暴力の自由」と言えるのではないでしょうか。
 この両者の「暴力」の間にある違い。それは「権利」なのだと僕は思っています。
 いじめられている子どもは、相手よりも体力が弱いかもしれないし、相手が大勢で、いつも好き勝手に殴られるばかりかもしれない。その状態においては、その子どもにだってやり返す自由はあるはずです。その時のその子どもの暴力は体力が劣っていること、多勢に無勢であることなどから「自由な暴力を自由に」ふるうということにはならないでしょう。一発殴っただけで、倍やり返されるだけかもしれません。しかしその子どもにはたとえ一発であっても殴り返す自由がある。殴り返す自由という権利があると、僕は思うのです。
 その点、いじめる側は「自由な暴力を自由に」ふるうことができたとしても、それは「権利」ではありません。
 「表現の自由」と「自由な表現、自由に表現」の違いも同様で、前者は権力や自分よりも強いものに脅かされている状態での「表現の自由」という権利。後者は、その権利をもたない、表現されているものの有り様に過ぎないのだと思うのです。「自由な表現、自由に表現」の中には、それが権利を持つ場合には「表現の自由」になるものもあるでしょうし、逆に好き勝手でやり放題、みたいなものもあるわけです。
 ですから、市民が国家に対して攻撃的な言葉を投げかけることは「表現の自由」として守られるべき権利ですが、国家が市民に対して攻撃的な言葉を吐いたとしてもそれは「表現の自由」ではないと、僕は考えています。
 さて、そして今回の加害者の手記ですが、僕は現状ではそれは「表現の自由」ではないと思います。
 まず加害者は事件のさいの被害者に対しては圧倒的に強い立場でした。被害者に対しての「表現の自由」は成立しません。次ぎに自分を逮捕した警察や有罪にした司法などに対して、これは逆恨みも恨みの一種と考えたなら「表現の自由」に当たるかもしれません。出所後の社会からの偏見や差別があった場合、それに対しても「表現の自由」はありえるでしょう。
 しかし、加害者は警察や司法や社会に対して書いたのでしょうか。僕にはそれは伝わってきません。そうした「権利」として書かれたものではなく、単純に一冊の本が「自由な表現、自由に表現」として出来上がったというだけのことなのだろうと思うのです。
 もし、今後、政府がこの本を禁書としたり、あるいは誰かが訴えて発行差し止めの処分が下されたり、もしくは個人レベルの「僕は読まない」を越えた集団的な不買運動などがおきたなら、そしてその時に加害者あるいは出版社が「権利」としての発行を続けた場合には、その時はじめて「表現の自由」という権利状況が生じるのでしょう。
 現段階で「表現の自由」が権利状況として生じているのは、この「自由な表現、自由に表現」として存在している手記によって、苦しめられている被害者遺族のコメントの方なのだろうと思います。
 と、いうことで、現段階において加害者の手記は「表現の自由」という状態にはないと、僕は考えています。
 この「表現の自由」については、シャルリーエブド襲撃事件のおりに、ちゃんと書いておくべきだったと反省しています。今回は、要約のような走り書きになってしまいましたが、時間を作ってちゃんと書かなければ、と思います。

 以上、時間のない中での記事なので、Facebookからの転載というイレギュラーなものになってしまいました。いつも以上に読みづらく、分かりにくかったことと思います。

 くれぐれも、市場に群がるメディアや評論家らによって、加害者がマニアにとっての神聖なヒーローに育て上げられないことを願っています。
posted by 五十嵐正人 at 05:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 五十嵐の意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月01日

川崎中1殺害事件を伝える新聞の記事タイトルに納得がいかない

 ここで書いたからといってマスコミに届くわけではないのだけれど、この新聞記事のタイトルはダメだ!

 川崎中1殺害「暴力告げ口で恨み」逮捕の18歳、友人に話す
(「毎日新聞」2015年3月1日朝刊)


 ※記事は、インターネット上でも読むことができる。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150301-00000001-mai-soci

 このタイトルを見たら、みんなどう思うだろう。「告げ口」という言い回しには、何か卑怯なことをしているようなマイナスイメージがある。子どもが誰かに暴力をふるわれた時には、大人に相談をしてほしいと思う。しかし「相談」のつもりであっても、周りから「告げ口」ととらえられたら、自分が悪いことをしているような意識に、なってしまわないだろうか。
 「暴力告げ口で恨み」は、同じような状況におかれた子どもを萎縮させてしまわないだろうか。
 同様のことは、大人の心の中にも起こってくる。こうした事件が起きた時に出てきやすい世論に、「被害者にも落ち度がある」というようなセリフがある。「こんな遅い時間に出歩いていたのが」とか「被害者にもスキがあったのではないか」とか。同じように「告げ口なんかするから」という声があがってきはしないだろうかという心配を僕は持つのだ。被害者少年が知人に話したのは「告げ口」ではなく「相談」だったはずだ。「相談」だとしたなら、まさか「被害者が相談したからいけないんだ」というような声は、まさかでてこないだろう。しかし「告げ口」と言われたら・・・。このニュースを見た世の中の親たちの中には、子どもに対して「何かあったら相談しなさい。でも告げ口なんかしちゃ、ダメよ。逆恨みされるからね」と諭す者がでてきはしないだろうか。親には「相談」と「告げ口」の違いが明確であっても、暴力を受けている子どもには分からない。子どもの正義感の中では、「告げ口」という言葉の持つ卑怯なイメージの方が強く感じられてしまうのだろうから。
 そして記事の中に出てくる、相談を受けて加害者に抗議に行った少年の友人の兄たちの行動。これも「相談を受けて」なのか「告げ口をされた」なのかによって、社会の受け止めは変わってくる。前者ならそれは正義の行為と映るが、後者なら「この知人の兄たちの行動が殺害の引き金になったのだ」というような稚拙な世論もおこりかねない。知人の兄たちの行動の詳細は分からない。それがたとえ褒められた意識によるものでなかったとしても、それとは関係なく、あくまでも少年は「相談」をしたのだ。この殺害事件について、「相談」した少年にも、それを受けて抗議に行った友人の兄たちにも、いっさい何の責任もない。それがどうであろうが、間違っているのは加害者なのである。
 この真実を、「暴力告げ口で恨み」というタイトルはぶち壊しているのだ。

 これについて、新聞記事には真実を伝えただけだという反論もあるかもしれない。記事には

 18歳の少年の友人らによると、同少年は「(上村さんは)俺に殴られたことを告げ口した。恨みがある」と話していたという。捜査本部もこうした情報を把握しているとみられる。

 という記述がある。つまりこのタイトルは、容疑者の発言を伝えた真実の報道なのだと。
 しかし、これは真実ではない。恐ろしい捏造だ。この容疑者は「俺に殴られたことを」と言っているのだ。けっしてそれを「暴力」とは言っていない。「暴力」という言葉には犯罪の匂いがある。おそらく容疑者は自身の行為を「暴力」とは認めていないのではないか。少なくとも「暴力」とは言っていない。言っているのはあくまでも「俺に殴られたこと」であって、「この言葉の裏には殴る理由があったんだ」という言い訳が潜んでいるのだろう。だから容疑者は「暴力」のつもりではないという意識に逃げ込もうとする。
 僕は「俺に殴られたこと」ではなく「暴力」だったと考えている。しかし、それは容疑者の意識ではない。「暴力」だというのは記事を書いたりタイトルをつけたりした新聞社の側と、僕ら市民の意識なのである。
 タイトルを付けた担当者は「(上村さんは)俺に殴られたこと」という容疑者の言葉をタイトル用に略した、あるいは言い換えたつもりかもしれない。しかし「暴力」への書き換えは、その言葉の発言者そのものを容疑者から、僕ら市民に変えてしまったのだ。これはもはや、略でも言い換えでもない。
 恐ろしいのは容疑者の発言とされる会話のカギカッコの中に「告げ口で恨み」という容疑者の意識と一緒に、「暴力」という我々の意識、認識による言葉を一括りにしてしまっていることだ。
 だから、このタイトルはマスコミが正義としている、真実の報道ではないのだ。
 「暴力」と書かれていることで、読者はそのタイトルがわれわれ世論の意識にたったものだと誤解する。「暴力告げ口で恨み」まで読めば、それが容疑者の声だとわかるのだが、一度心に生じた誤解は、タイトル全体の読み取りを誤らせるのだ。冒頭で書いてきたように。
 せめて「暴力」をカギカッコから外して、二つの異なる意識をわけ、
 暴力「告げ口で恨み」
 というようなタイトルにはできなかっただろうか。
 あるいはすべてを容疑者側の意識としてカギカッコに入れて、
 「殴られたこと告げ口で恨み」
 であったり。
 もしくはカギカッコを外し、全体を被害者少年の側からの意識にして、
 暴力相談を逆恨み
 にするとか。
 一つのカギカッコの中に、世論と容疑者という異なる立場の意識を括ってしまったことの弊害は、大きいように思う。世の中で暴力被害を受けている子ども達の、まったく正しく正当な「相談」という行為が、「告げ口」という卑怯で、報復の原因となる行為に貶められてしまった。僕は今朝、このタイトルを新聞紙上に見つけた時に、そう確信した。

 もし、このブログを目にした子どもたちがいたなら、ぜったいに間違えないでほしい。

 暴力をふるわれたなら、大人に相談していいのだ。それは正しく、正当な行為なのだから。それは、断じて「告げ口」というようなことではない。

 そしてあなたが、暴力をふるっている側であったなら、「俺が殴った」ということが「暴力」であることを知るべきだ。それを殴られた相手が誰かに「相談」する行為は、断じて「告げ口」ではない。「告げ口」の持つ卑怯な感じは、「相談」を「告げ口」だと思い込むことに逃げる、あなたの中の卑怯なのだ。

※いつもは、少しでも冷静にとおもって「です。ます」の文章で書くようにしているのですが、今回はその余裕がなく「である」の文章になっています。
posted by 五十嵐正人 at 12:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 五十嵐の意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月02日

一つの提案「世界規模での格差是正を実現するための条約」

一連の過激派テロの持つ、抵抗権・革命権としての側面

 統治の目的は人類の善にある。そうであるとすれば、人民が暴政の際限のない意志にさらされることと、支配者が、その権力を濫用するようになり、それを人民の所有物の保全にではなく破壊に用いる際にはときとして抵抗を受ける場合とでは、どちらが人類にとって最善であろうか。
「完訳 統治二論」ジョン・ロック 加藤節訳 岩波文庫


 ジョン・ロックが示しているとおり、僕らは抵抗権の及ぶ範囲を一つの統治下に限定して考えています。それはつまり、一つの国家ということです。その国家内において、たとえば虐げられている市民たちが統治者たる政府や王権に対して抵抗し、革命をおこす権利を、抵抗権、革命権として認識しているのです。ですから、地理的に離れていても、植民地でおきる独立運動は、本国政府に対する革命権の行使として認められます。アメリカがイギリスから独立した独立戦争が革命として位置づけられるのも、そういう理由からなのでしょう。その独立宣言には、このように抵抗権が明記されています。

 われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有するということ、である。
サイト「About the USA」EMBASSY OF THE UNITED STATES IN JAPANより引用



 こうして考えると、2015年になって発生したパリの風刺画雑誌「シャルリーエブド」襲撃事件や、邦人二人が拘束のうえ殺害された事件など、国境を超えたテロリストの攻撃は、抵抗権や革命権の行使とは異なるように思えます。後者の事件の場合、犯行を行ったとされるISIS(イラクとシリアのイスラーム国)が支配地域としているイラクとシリアにおいては、それぞれの政権に対する革命権の行使だといえなくもないのでしょう。しかし僕ら日本には自分たちに対しての抵抗権の行使だとは、なかなか実感ができません。
 でも、簡単にそう断定してもよいのでしょうか。
 ここ数年、世界各地でテロ行為を起こしているいくつかの過激派組織。その多くは中東に拠点を持ち、正しい表現とは思えませんが「イスラム過激派」と呼ばれています。彼らか標的としているのは、主としてアメリカを含む西側諸国とその支援国家です。それらの国々は、テロリストたちの拠点となっている中東地域にあるわけではありません。ですから「政府」や「王権」という意味合いでの支配は直接には行っていないのです。しかし支配というのは政治的なシステムだけで行われるものなのでしょうか。
 現在のようにグローバル化する以前には、それぞれの国々がその国民に対して行っていた「経済」や「武力」という支配が、今は国境を超えています。いまさらいうまでもないことですが、先進諸国と言われている国々の経済的な発展は、他の地域の犠牲の上に成り立っているのです。個々の国々の貧困の原因、その重要な部分を握っているのは国境を超えて先進諸国にあるわけです。
 しかしそれは見えにくい構造になっています。国家が、他の国家をあからさまに搾取するのではなく、資本家や投資家、企業などの経済活動としておこなわれているのですから。そのため、それぞれの国に生じている貧困の責任は、原因が国境の向こうにあったとしてもそれぞれの政府がになわされることになります。これは正しいことなのでしょうか。明らかに先進諸国の際限のない経済活動が原因であるのなら、搾取されている国の国民は国境を超えて抵抗権を行使することができるのではないか。その行使は正当な権利なのではないか。僕はそう考えます。
 あるいは「武力」の場合。アメリカを含む対テロ有志連合の空爆がなされる時、それによって誤爆された現地の民間人の怒りは、やはり国境を超えて有志連合参加国の政府に対する抵抗権行使の理由にはならないのでしょうか。
 日本も含まれるのですが、先進国家といわれている国々は、「経済」と「武力」によって、場合によっては他国民の生殺与奪をも自由にできるほどの干渉を行っています。それでいながら、その犠牲者たちの怒りやそれによっておきてくる、抵抗権や革命権の行使に対する責任をとろうとしないできたのです。それらは、それぞれの国の政府の役割なのだと・・・。
 しかし今日のようにグローバル化した世界においては、実質的に統治側に位置している国々は、生殺与奪されてしまう人々による抵抗と革命の権利行使を、国境を超えて受けることになる。それを正当な権利と認めなければならないのだろうと、僕は考えるのです。

 「シャルリーエブド」襲撃事件や邦人拘束殺害事件などのテロ行為を見て、あれは革命ではなく暴力だ、という意見もあるかもしれません。しかし革命というのは、成就したから革命と呼ばれ、正義の匂いをせさているのですが、その実態は暴力的なものであったりもするのです。たとえばフランス革命においては、標的となった貴族らの特権階級はもちろんのこと、革命側のロベスピエール一派の恐怖政治によって多くの革命家たちもギロチンにかけられました。恐怖政治下での死者は2万人にものぼるといわれています。ですから、その手法が残忍な暴力であったとしても、それが抵抗権、革命権の行使ではないということにはならないのです。
 また、邦人を拘束殺害したISISには、兵士に多額の給与を支払っているという噂もあります。そうしたところから、本当に虐待され蹂躙されている人たちの抵抗運動ではないのではないか、という疑問も出てくることでしょう。しかし考えてもみてください。本当に抵抗をしたい人、つまり貧困の極限にあるような人は、その飢えのために立ち上がることさえできないはずなのです。無人爆撃機によって生死の境目に落とされた罪のない市民は、最大の抵抗権の行使者なのでしょうが、彼等自身が革命に参加することが不可能なことはいうまでもありません。
 フランス革命は特権階級に対する市民の抵抗でした。しかしその革命家一人ひとりをみてみると、恐怖政治を行ったジャコバン派のマクシミリアン・ロベスピエールも、そこで処刑されたジョルジュ・ダントンも、ともに弁護士でした。しかもロベスピエールは法服貴族の家に産まれていますし、ダントンは王室顧問会議付きの弁護士だったことがあります。つまり、僕らが想像しているような貧困や差別にあえいでいる人たちが、かならずしも抵抗や革命をしていたわけではないのです。
 確証はないのですが、おそらくアメリカ独立戦争やフランス革命の実行者たちの中には、なんとなく社会に不平不満を持っていた人たちや、自分の居場所や自分探しをしていた若者たち、あるいは人を殺してみたいという衝動を隠しながら市民生活を送っていた人たちなどが、紛れ込んでいたのではないかと推測されます。純粋に虐げられていた人たちよりも、もしかしたら、なんとなく社会に不平不満をもっていた人たちの方が多かったかもしれません。そうした人たちが紛れ込んでいるからといって、それは抵抗権、革命権の行使ではないとは言い切れません。そういう人たちをも巻き込みながら、革命は行われると解釈した方が、より現実にあっているのでしょう。

 かつて、共産主義による世界同時革命という考え方が主張されたことがあります。あの時代は、まだ現代ほどにはグローバル化していなかったので一つ一つの国家ごとに一つひとつの共産主義革命が行われるというプロセスを必要としていました。しかし今では、革命の根拠となってしまう貧困や武力支配は国境を越え、テロ組織がインターネットを通して地球の裏側の政府や国民と交渉できる時代が到来しているのです。そして先進諸国にしたところで、そのテロ行為に共感するかもしれない、社会に不満を持つ人や自分探しをしたい若者、人を殺してみたいと思っている市民などを内在して成立しているのです。
 一つの世界として地球をみてください。「経済」と「武力」で他国を実質統治している国々が「テロとの戦い」をスローガンとし、その一方で抵抗と革命の原因となる貧困や格差や差別を解決する責任を個々の国々の政府に押しつけている実態。これはもう、限界にきているのではないでしょうか。
 僕らはこの一連のテロ行為に対して、それが国境を超えた抵抗権、革命権の行使であるという側面を持っていることを、認めるところから考えはじめなければならないように思います。

すべての国々は、世界規模での格差是正に責任を持つべきだ

 中東に拠点を持つ過激派組織のテロ行為。僕はそこに世界規模での抵抗権、革命権としての側面を認めることを主張しています。つまり、その原因の一つとして考えられる貧困、格差、差別などを解消する責任を世界中の国々が負うべきだと考えているのです。この責任を放棄して、現象としてのテロが発生するたびに「テロとの戦い」を繰り返していたとしても、たとえそれに勝利し続けたとしても、テロが根絶するなどとはおそらく誰も思ってはいないことでしょう。ISISやアルカイダを根絶やしにしたとしても、世界に貧困、格差、差別などがあるかぎり、新しい過激派組織はかならず生まれてくるのです。たとえイスラム教において教えを曲解する過激派が出てこない状態を作ることができたとしても、別の火種が求められ、爆発するだけなのです。
 テロが発生するたびに対処的に「テロとの戦い」を挑むだけではなく、貧困、格差、差別などに世界の国々が国境を超えて責任を持つということ。それが一連のテロに、抵抗権、革命権の側面を感じ取り、認めるということなのです。

 発生したテロへの対処的手法として、西側諸国を中心とした対テロ有志連合が組まれ、空爆が行われました。このように国際社会が連合することができるのであれば、貧困や格差を解消するために、連合することはできないのでしょうか。あるいは、国連を使ってでもいいでしょう。たとえば、国ごとの排出ガス削減を数値化して目標として定めた京都議定書のように。
 以下は、僕の考える試論です。


 世界規模での格差是正を実現するための条約

一、最貧国と最富国との格差は〇〇倍以内にするよう、行動計画を定め実行する。

二、加盟するすべての国は、国民における最貧者と最富者との格差是正目標を定め、行動計画を策定し実行する。
                             

 これは資本主義経済を否定するものではありません。むしろ世界のスタンダードになりつつある資本主義体制を認めたうえで、貧困、格差の是正を図るものです。

 僕らが世界人類の経済格差をイメージする時の三角形を思い出してください。裾野の拡がりは、貧しく飢餓に苦しむ、そして産まれる間もなく子供たちが死んでいくような状況。そして頂点に位置するのは、世界の富のほとんどすべてを手にしている一握りの人間たちです。この格差是正の考えは、この三角形に上下から圧力を加え、よりなだらかな形にしようということです。底辺を押し上げるだけで頂点の一握りの富裕層をそのままにしておくのではなく、また頂点を押し下げるだけで飢餓に苦しむ人たちをそのままにしておくものでもありません。特に後者になってしまう場合には、一の最貧国と二の最貧者について人権上ふさわしい最低限の目標ラインをあらかじめ設定しておく必要があるでしょう。

 本来なら、二つに分ける必要はなく「世界人類において最貧者と最富者の格差を・・・」とすればよいのでしょうが、個々の国の主権を考慮すると二つに分けることが現実的に思われます。

 一、二、いずれにおいても、是正される格差の目標は、資本主義としての経済活動が滞りなく営まれ、なおかつ格差が個々の人々の尊厳を蝕まない幅に設定されるべきです。ただし、特に二については国々によって異なるものであり、同時に経験によって発見されるものだと考えられます。したがって、目標数値は行動計画ごとに見直され、ある程度長い年月をかけて落ち着いていくものと思われます。

 一については、できるだけ多くの国々が加盟しなければ、意味をなしません。現実的には加盟国の中での最貧国と最富国の経済格差について目標を定めることになるのでしょうから。この時、国境を超えた抵抗権と革命権を正当な権利として認めることが重要になるのです。自国、及び世界の経済格差是正に消極的な国家は、抵抗権の標的となるリスクを負うことになるでしょう。

 二について、その格差是正の手法は、その国々によって異なるだろうと思います。現在の日本では税制の改革や経済政策の転換などによって、それは行われるのだろうと思います。国家によっては、日本で武家の時代に行われた徳政令のような手法が用いられる場合もあるかもしれません。

 低所得者の所得をあげるだけではなく格差の幅を狭くすることを目標とした条約なので、大企業や高所得者層を優遇する税制、経済施策を行い、そのお零れを低所得者への福祉に、というような施策は否定されます。同様に、一においても自国の経済をとにかく大きくすることで発展途上国にODAを、というような国策は、それだけでは説得力をもたなくなります。

 これは、国家レベルにおいても個人レベルにおいても、今まで「施し」によって行われていた救貧の行為を、「共存」を前提とした格差是正に切り替えようという試みです。施しという行為それ自体がすでに持っている、格差の匂いを否定しなければなりません。

 一と二が組み合わさることによって、ODAのような経済支援の意味合いも変わってきます。たとえばある一定以上のODAについては条約加盟国でなければ拠出しないというルールをつくってみましょう。そうすることで経済支援を受けた国は、そのお金が国内の経済格差をうむような方向での使い方、つまり二に反する使い方をできなくなるわけです。具体的にはODAで浮いた財政で、武器を購入するようなこと。それは自国民の貧困を解決しないばかりか、戦争相手に多くの難民を生じさせてしまうのですから。

 またそれにより、経済援助する側もその与えたお金で自分の国の武器を買わせる、というようなことはやりづらくなるはずです。

 僕は、こうした条約を世界の国々が結ぶことで、テロとの戦いをしなくてよくなるとは考えていません。条約が本当に経済格差を狭めていったとしても、テロを企てる者はいなくならないと思うからです。それに対しては戦っていくべきです。

 かりに正当な抵抗権、革命権をもったテロ行為だったとしても、その前にひれ伏す必要はないと考えます。かりに経済格差の原因が百パーセント我にあったとしても、自分が死にたくなければ、自分が悪であったとしても抵抗してよいはずです。ですから、発生するテロに対しての「テロとの戦い」は続くのでしょう。それが正当な抵抗権であったとしても、その手法が暴力であるなら、それを犯罪として弾劾することをやめてはいけません。テロの原因となる世界規模での格差の是正は、このことをあやふやにすることではないのですから。

 ただし、無関係な市民を巻き添えにするような無人爆撃機での空爆などが、正当な戦いの手段とは思われません。それは時として戦災孤児という格差の底に落とされる人々を産む行為なのです。

 また、国家レベルで行われるテロについては抵抗権や革命権の範囲ではないだろう事を書き添えておきます。

 先に書きましたが、実際に革命に参加して武器をとる人たちは、すべてがその正当な資格者ではありません。おそらく多くは、なんとなく社会に不満を持っている人たちなどなのです。ですからそれぞれの国がそれぞれの国民の経済格差を是正するということは、ISISのようなテロに賛同する国民を減らすことであり、テロ危険から国を守る手法でもあるはずです。

 僕は障害福祉に関わる仕事をしています。そこで実感しているのですが、虐待防止や権利擁護の法整備が進んでも、実態としての差別の解消はほど遠いことです。権利が護られたとしても暮らしが豊かになるわけではありません。これがすべてというわけではありませんが、格差の是正が行われることは、差別の本質的な解消の一つにはなるはずです。同様のことは、アメリカにおいて起きている黒人への根強い差別にもいえることでしょう。障害差別、人種差別、その他の差別解消については、格差の是正が同時に行われることが有効であるように思われます。

繰り返しのような、まとめ

 テロとは戦うべきです。もちろん、その戦い方は吟味されるべきですが。
 そして同時に、それが持っている抵抗権、革命権の側面を認めるべきです。
 認めることによって、主として先進諸国は、世界規模での格差の是正に責任を負うことになります。
 具体的なその責任の果し方は、「施し」ではありません。
 抵抗権を認めるならば、それが行使される状態を、日本国憲法で使われている「公共の福祉」に反している状態と考えることができるでしょう。
 ここにおいて僕らははじめて合法的に、「金儲けをして何が悪い!」という無分別で無制限の富の蓄積に歯止めをかけることができるのです。
 金儲けは、永遠に自由なわけではありません。公共の福祉に反しないかぎりにおいて自由なだけです。抵抗権や革命権が正当に行使されるほどの富の蓄積は、公共の福祉に反する、国家を危険にさらす行為なのです。つまり認められない行為となります。
 つまり、この点において、抵抗権と革命権は逆説的に国家を守る尊重すべき自然権となるのです。
 そしてその正当な抵抗権、革命権の行使は、蓄積された富の量によって実行されるのではなく、格差の幅によって実行されるのだろうと僕は考えます。
 したがって、富の蓄積の量に制限を設けるのではなく、一定以上の格差の発生を許さないことが有効になるのでしょう。
 世界規模で、環境問題について国ごとの数値目標をたてたように、国々が集まって本気で格差是正の数値目標をつくり実行していくことが大切です。
 自家用ジェット機を何代も所有しているような人と、難民として飢餓状態におかれ死を待つ人が、同じ人間であることに気づくべきです。
 そして気づいたなら、同じ人間であることを現実のものとしなければなりません。二人のあいだにある格差を、人としての権利が護られる幅の中におさめるのです。

 僕は一つの提案として、世界規模での格差是正への連体しての取組を求めます。
 僕の考える「世界規模での格差是正を実現するための条約」のような形が可能なのか、あるいは実効性があるのかはわかりません。しかしどのような方法であれ、すべての国々が世界規模での格差の是正に責任をもった行動を起こす時が、今もうそこにきているのだと、僕は考えています。



 拘束され殺害された二人の日本人。その一人はジャーナリストなので、名前を出してもよいでしょうか。
 僕はこの後藤健二さんというジャーナリストを知りませんでした。その報道には触れていたのかもしれないのですが、記憶がありません。したがって後藤さんのジャーナリストとしての評価をすることはできないのですが、後藤さんがシリアに入る時に撮影したというビデオのメッセージが強く心に残っています。

 えー、私は、私の名前はゴトウ・ケンジ。ジョーゴ・ケンジです。ゴトウ・ケンジ。ジャーナリストです。これからラッカに向かいます。イスラム国、ISISの拠点といわれますけれども、非常に危険なので、何か起こっても、私はシリアの人たちを恨みませんし、どうかこの内戦が早く終わってほしいと願っています。ですから、何が起こっても、責任は私自身にあります。どうか、日本の皆さんもシリアの人たちに何も責任を負わせないでください。よろしくお願いします。まぁ、必ず生きて戻りますけどね。よろしくお願いします。
「産経新聞ニュース 1月22日」ネットより引用


 僕が今書いているこの記事は、「シャルリーエブド」襲撃事件が起きた時に書きはじめた草稿が元になっています。それは何度となく書き直され、時には怒りや絶望から、批判めいた内容に偏ったりもしました。そして2月1日、後藤さんの死亡を確認したかのような報道が流れた時、ビデオメッセージの中の「どうか、日本の皆さんもシリアの人たちに何も責任を負わせないでください」という言葉が強く思い出されたのです。
 そうして今、この記事を書き終えようとしています。
 お二人がISISに拘束された経緯や、政府の対応など、考えなければならないことはいろいろあったのでしょう。しかし、僕にはそれらは差し迫った重要事項には思えませんでした。この出来事をきっかけにネット上で目にした後藤さんの撮影した子どもたちの写真。そして僕自身が日常的に接している大切な人たちとのこと。僕にはそれらの方が大きなことでした。
 僕のようなものが提案をしたところで誰に届くものでもありません。しかし、地球上のすべての国々に、世界規模での格差是正の責任があると考えるのなら、それはつまり地球人類の一人ひとりに、けっして諦めることなく、精一杯その方法を考え、実行することが求められているのではないでしょうか。
 現在の僕が考える精一杯の具体的な方法を、ブログにアップすることとします。

 死を断定することには悔しさが残りますが、お二人のご冥福をお祈りいたします。
posted by 五十嵐正人 at 22:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 五十嵐の意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月17日

危険な「空気」−−爆笑問題とサザンオールスターズが視覚化させたもの

 同時期に起きた二つの騒動から感じることをまとめておきます。
 一つ目は漫才コンビの爆笑問題がNHKを批判したとされる騒動です。詳細についてご存じない方のために、1月7日付けの朝日新聞DIGITALを引用しておきます。

 お笑いコンビの爆笑問題が7日未明に放送されたTBSのラジオ番組「JUNK爆笑問題カーボーイ」で、NHKのお笑い番組に出演した際、事前に用意していた政治家に関するネタを局側に没にされたことを明らかにした。

 出演したのは3日に放送された「初笑い東西寄席2015」。爆笑問題はNHKアナウンサーとともに司会を務めていた。

 ラジオ番組によると、放送前に番組スタッフに対して、「ネタ見せ」をした際、政治家のネタについてすべて放送できないと判断されたという。

 番組の中で田中裕二さんは「全部ダメって言うんだよな。あれは腹立ったな」と話した。太田光さんは「プロデューサーの人にもよるんだけど、自粛なんですよ。これは誤解してもらいたくないんですけど、政治的圧力は一切かかってない。テレビ局側の自粛っていうのはありますけど。問題を避けるための」と話し、田中さんは「色濃くなってるのは肌で感じるね」と応じた。
(朝日新聞DIGITAL 2015年1月7日)


 これについて、爆笑問題は同じラジオ番組の翌週放送時に、反省の弁を語っています。

 お笑いコンビ・爆笑問題が14日未明放送の「爆笑問題カーボーイ」(TBSラジオ)で、3日にNHKの番組に出演した際、事前にネタを没にされたことについて語った。

 ボケ担当の太田光は「ネタの打ち合わせって言ってこっちは1回了承してるんですよ。現場でね。それを別の局でチクる(公言する)のはまずひきょうなんだよね。俺たちが」とこの事柄を、先週の同番組で話題にしたこと自体を反省した。

 さらに、「ああいうことはよくあることで、NHKに限らず民放も、(ネタを)やるやらないというのはNHKに限らないんです。言論統制みたいなこと(報道)になっちゃったけど、そんなことない」と続け、「あれに関してルール違反は俺ら」とNHKに非がないことを強調した。
(livedoor’NEWS 2015年1月14日)


 概要だけを簡単に記すなら、爆笑問題が政治家をネタにした漫才をしようとしたが、NHKスタッフからダメだとされ、そのことを別のラジオ出演時に批判。後に反省をした、ということです。

 そして二つ目は、サザンオールスターズの騒動です。こちらは反省ではなく謝罪をしています。

 人気バンド「サザンオールスターズ」のリーダー、桑田佳祐さんと所属事務所のアミューズは15日、昨年12月末に横浜アリーナで開催された年越しライブ「ひつじだよ!全員集合!」の内容について、ネット上など一部で批判の声が上がっていることに対し、「表現方法に配慮が足りず深く反省する」という「お詫(わ)び」を発表した。

 「お詫び」では、昨秋受章した紫綬褒章のステージ上での扱いに関し「感謝の気持ちを伝える場面を作ったがジョークを織り込み、取り扱いにも不備があった」ため「深く反省しお詫びする」としている。

 ほかにも、NHK紅白歌合戦出演時のつけひげは「お客さんに楽しんでもらうため」、一昨年のライブで舞台背景に流した反日ニュース映像は「緊張が高まる世界の現状を憂い、平和を希望する意図で使用した」と説明。すべて「特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶(おとし)めるなどの意図はない」としている。

 事務所などによると、桑田さんがライブで紫綬褒章をお披露目する際、ジーンズのポケットから取り出し、オークションにかけるようなパフォーマンスをしたという。

 これらの行為が、ネットなどで「反日的である」「国家の尊厳を踏みにじる」などと騒ぎになり、今月11日には、東京都内の事務所前で抗議行動などが起きていた。
(毎日新聞 2015年1月17日)



 これからこの二つの騒動について論じるのですが、あらかじめ、僕が爆笑問題についてもサザンオールスターズについても、特に関心を持っていないことを明らかにしておきます。これは、好きなわけでもなく、かといって嫌いなわけでもない。少し失礼な言い方を許してもらえるなら、どちらに対しても今まで興味をもったことがありません。ですから、爆笑問題、及びサザンオールスターズを擁護するため、あるいは貶めるために論じるわけではないということです。
 そしてもう一つ。日頃から両者については関心がないので、これまでどのような政治的な立場に立ってきたのか、あるいは発言やパフォーマンスをしてきたのかということもわかりません。今回の報道で知った知識だけで論じるのだということもお断りしておきます。ですから、ファンやアンチの方たちであればわかるのかもしれない、「本心は・・・」みたいなことはまったく考慮せずに書いていきます。

爆笑問題−−政治的圧力がかかっていないからこその危険

 さっそくですが、爆笑問題の騒動についてです。僕が特徴的だと思うのは、反省時にリーダーシップをとっている太田光さんが謝罪をしていないということです。最初のNHKへの批判めいたものは相方の田中裕二さんの発言にはじまっていて、太田さんはその相方の思いを認めつつNHKにも配慮した大人の発言でまとめています。通常ならこの後には謝罪がくるわけですが、太田さんはそれを反省にとどめ、あたかもその場を使って別のメッセージを発信しているように感じられるのです。うがった見方かもしれませんが、最初の田中さんの憤りの声からはじまる世相漫才の台本が出来上がっていたかのような仕上がり。まさかそんなことはないだろうとは思いますが、この機に乗じて太田さんは何かを伝えようとしていた。僕にはそう思えてならないのです。
 そのメッセージを探るために、もう一度順を追って考えてみましょう。
 ことの発端は、NHKでのネタ見せの段階で、番組スタッフがダメをだしたことにあるのですが、そのネタの内容はNHK批判ではありませんでです。記事から推測するに、政治家をネタにしたものだったようです。ですから、そのネタにされている政治家がダメをだしたのならわかりやすいのですが、なぜか放送するNHKのスタッフがダメをだしている。実はこのことが問題なのだろうと推測されます。
 太田光さんが読んでいたかどうかはわかりませんが、山本七平が『「空気」の研究』で指摘した危険を、太田さんは感じていたのではないだろうか。僕の結論は、これです。
 権力者が意思表示をしなくても、まわりが権力者を慮って自粛をしてしまうようなこと。その「空気」。直接権力者が手を下す場合の恐ろしさとはまた異なる危険が、「空気」にはあるのです。太田さんの発言からは、それを感じるのです。
 「プロデューサーの人にもよるんだけど、自粛なんですよ。これは誤解してもらいたくないんですけど、政治的圧力は一切かかってない。テレビ局側の自粛っていうのはありますけど。問題を避けるための」
 この発言、「誤解してもらいたくない」と言うことで一見するとNHKスタッフをかばっているかのようにも聞こえます。彼らは「政治的圧力」をかけられて屈したわけではないんですよ、というような・・・。しかし「空気」こそが危険であることを意識しての発言だったとしたなら、どうでしょう。政治的圧力がかかって行われる情報統制よりも、場合によってはずっと恐ろしい「空気」を読んでの自粛が起きていたんだということを言いたかったのではないか。
 山本七平の『「空気」の研究」から引用します。

 驚いたことに、「文藝春秋」昭和五十年八月号の『戦艦大和』(吉田満監修構成)でも、「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」(軍令部次長・小沢治三郎中将)という発言がでてくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。従ってここでも、あらゆる議論は最後には「空気」できめられる。最終的決定を下し、「そうせざるを得なくしている」力をもっているのは一に「空気」であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。というのは、おそらくわれわれのすべてを、あらゆる議論や主張を超えて拘束している「何か」があるという証拠であって、その「何か」は、大問題から日常の問題、あるいは不意に当面した突発事故への対応に至るまで、われわれを支配している何らかの基準のはずだからである。
(『「空気」の研究』山本七平)


 太田さんは「ネタの打ち合わせって言ってこっちは1回了承してるんですよ。現場でね」ということと「それを別の局でチクる(公言する)のはまずひきょうなんだよね」と二点において反省しているものの、NHKスタッフが問題を避けるための自粛をしたとする発言についての謝罪はしていないのです。この部分については「言論統制みたいなこと(報道)になっちゃったけど、そんなことない」と言っているのです。
 「言論統制ではない」ということ。これは「自主規制をしていない」と言っているのではありません。むしろ「言論統制ではないが、自主規制はあった」と言っているようにさえ聞こえます。
 このことが僕には、言論統制があからさまにおこなわれる状態というのは、およそ末期的な段階なのであって、まだそこまではいっていない。しかし空気を読んでの自主規制が行われている状態の先には直接的な言論統制が待っているんだよ、というメッセージとして響いてくるのです。
 爆笑問題の太田光さんは、この危険を漫才師としての技法で伝えようとしているように、僕には思えました。

サザンオールスターズ−−「空気」はこうしてつくられる

 そして二つ目の騒動です。
 こちらは、爆笑問題の場合とは異なって、事前に「空気」を読んでのダメだしがあったわけではありません。事態はむしろ深刻で、爆笑問題の政治ネタは未遂でしたが、サザンオールスターズの方は演じてしまったことに対してのクレームがきたかたちです。
 こうした違いはありますが、共通点もあります。やはりこの場合もネタの向いている方向と批判してくる人たちがイコールではないのです。
 紫綬褒章についていうなら、それは閣議で受章者が決まり、日本国天皇の名において授与されるものです。ですからこれについて批判された場合に謝る先は政府と天皇ということになります。しかし政府と天皇が紫綬褒章の扱いについて批判をしたというニュースは、僕の知るかぎり聞こえてきません。では、なぜ謝罪したのかというと、それはおそらく「これらの行為が、ネットなどで「反日的である」「国家の尊厳を踏みにじる」などと騒ぎになり、今月11日には、東京都内の事務所前で抗議行動などが起きていた」からだと思われます。
 そしておそらくですが、こうした抗議行動をした人たちは自主的に動いたのであって、政府や天皇からの依頼を受けて抗議行動を行ったわけではないと想像されます。つまり、ここにもまた「空気」が漂っていたのです。しかもこの場合はサザンオールスターズがパフォーマンスをした後だということもあって、事前に政府や皇室の事を慮ってということでもないようです。慮って発生した「空気」というよりも、こんな行動をしたらこんな目にあうんだぞという力を働かせて一つの「空気」を作ろうとしたようにも思えます。
 発生したのではなく、これによって作られようとしている「空気」、それはとりもなおさず、愛国のイメージと、反日のイメージなのでしょう。本来なら、自国を愛するあり方は多様なものであるはずなのに、それが固定化されていくと、国のために命を捨ててこそ愛国者、などという「空気」が作られかねない危険があるのです。
 サザンオールスターズを好きな人たちの中には、謝罪したことでがっかりした人もいるかもしれません。僕はサザンオールスターズに思い入れがないので弁護するつもりはありませんが、理解しなければならないのは、それほどまでに「空気」というものは恐ろしいのだということです。むしろ政府や宮内庁などが直接抗議をしてきた方が恐怖は少ないのでしょう。そこには一定の秩序が働くと考えられます。これに対して「サザンオールスターズは反日的だ」という「空気」が作られ、その「空気」に流されて行われる抗議行動は、時としてより激しく、無秩序なものにもなりかねないのですから。
 サザンオールスターズの騒動から僕らが教訓として学ぶべきことがあるとしたなら、僕ら一人ひとりが、その恐ろしい「空気」の構成員になる可能性を持っているということ。「空気」に流される存在になりかねないということ。そしてその「空気」は、時として権力による直接的な抗議よりも残虐になりえるということなのだろうと思います。

カナリアの卒倒を見逃してはいけない

 以前、二回に分けて書いた『「美味しんぼ」騒動から考える』という記事の中で、山本七平の『「空気」の研究』にふれました。その二回目の「僕らが読者としてできることがあるとするなら」
http://mouhitotsunofukushi.seesaa.net/article/397909804.html
という記事の中で、僕は作られていく「空気」に対して「水を差す」ことの必要を書きました。そこで、カート・ヴォネガットが言っていた「炭鉱のカナリア」理論についても触れました。

 この理論が示すのは、芸術家たちが社会にとって有効であるならば、その理由はかれらがきわめて感じやすい者たちだということです。かれらは徹底して感じやすい。かれらは有毒ガスが充ちてくる炭鉱のカナリアのように、より躰の強い者らが危険を認める前に、卒倒してしまいます。
(『「広島とドレスデン」大江健三郎』の中の引用部分)



 僕はこのカナリアの卒倒が、危険な「空気」に水を差す、有効な手段の一つなのではないかと考えています。この点からすると、爆笑問題とサザンオールスターズは、それぞれのパフォーマンスで、卒倒して見せたのではないかとも思えるのです。
 そして、そうだったとするなら、日本という炭鉱にはすでにカナリアが卒倒するほどの有毒ガスが充満しつつあるのだということ。カナリアの卒倒を見逃したなら、僕ら日本人は有毒ガスの餌食になり、全滅してしまうかもしれないということに、気づかなければならないのかもしれません。
posted by 五十嵐正人 at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 五十嵐の意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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