2012年09月03日

電照菊は悲しい(24時間、年中無休であることについて 1)

電照菊って悲しくないですか。

菊は日照時間の長短で開花時期が変わります。この性質を利用して、人工的な光を当てることで開花のタイミングをコントロールして出荷されるのが電照菊です。
日本では電照菊に限らず、さまざまな農作物がビニールハウス栽培などで、一年中消費者に届くシステムができあがっています。
この時生じている主従の関係(管理する側と管理される側)をみると、主は消費者で、従は開花期を自分で選べない農作物ということになります。農家はその間にあって、実際のコントロールをする立場です。消費者から観れば消費者の意向に従って直接コントロールを行う従者の側でもあり、同時に農作物にとっては人工照明を当ててきたり、温度管理をしてきたりという直接的な主人でもあるわけです。
これは、合理性の名のもとに、とても先進的なことと解釈されているシステムです。
ただ、気をつけなければならないのは、その合理性というのは農作物にとっての合理性ではなく、一方的に消費者にとっての、そして時として生産者にとっての合理性に過ぎないということです。
合理性は常に管理する側にあるのだということを忘れてはいけないでしょう。

さて、僕らは「ばおばぶ」をはじめるにあたって、24時間年中無休としました。
実際には、たとえば一緒に旅行に行くことを頼まれたりした時には不在になるので、他の方のご利用に対応できなくなったりします。ですから、旅行という仕事を行っているということで「ばおばぶ」は無休であるにしても、ご利用したかった方にとっては、その間利用できないのですから、その人の願いには24時間年中無休ではこたえていないことになります。
この点に弱さはあるのですが、「ばおばぶ」は24時間年中無休だということで話しを進めていきます。

僕らが「ばおばぶ」をはじめた頃の日本の公的な障害福祉には、生活支援と言えるものはほとんどありませんでした。
現在のショートステイに通じている緊急一時保護という事業があったのですが、これはいつでも利用可能なサービスというわけではありませんでした。利用までの手続きが煩雑であったり、成人の場合は利用の窓口になる福祉事務所の営業時間が限られていたりと、一言でいうなら「使えるものなら使ってみろ」と言っているような制度でした。
それはおそらく、利用者の利用を制限することと、公的な支出を可能な限り抑えることを目的とした、使いづらさだったのでしょう。
障害を持つ方と暮らす家庭で、母親が夜中に病気になったとしても、その母親は障害のあるお子さんを残して病院に行くことはできません。かといって頼みの緊急一時保護はどんなに早くしても福祉事務所が開く翌朝以降の利用になるのです。母親は今子どもを預けて自分は病院に行きたいという思いを持っているのですが、それが翌朝以降にコントロールされるわけです。まるで、いま正に開花しようとしている菊が人工的な光を当てられて開花期を伸ばされてしまうように・・・。この時の人口の光や農作物にとってのビニールハウスの役割を担うのが、福祉サービスを使う時の煩雑なルールであり、つまりは社会福祉の制度なのです。
当時の社会福祉の制度は障害福祉サービスを利用する人のためにあったのではなく、それをコントロールする側のためにあったのです。そしてこのことは、おそらく現在でも変わっていません。

措置制度の時代から支援費制度にかわり、契約によって福祉サービスが利用できるようになった。このことは、利用者が事業者と対等の立場になったと解釈されますが、それは全くのでたらめです。百歩譲って両者が対等だったとしても、それは電照菊と生産者の両方が、消費者にとってはひとまとまりの従者であるということに過ぎません。
多くの人が誤解しているのですが、公的な障害福祉制度、つまりは障害者自立支援法の消費者は、サービス利用者ではないのです。消費者とはお金を出す人であり、常にコントロールする立場であり、その側に立ってのみの合理性が実現される側です。
障害者自立支援法における真の消費者は国をはじめとする行政であり、その資金の基を作っている納税者たる国民一人ひとりなのです。
そして多くの場合、消費者は自分にとってとりあえずどうでもいいことについてお金を使う時には、できるだけ安く済ませることを望みます。これが消費者側の合理性なのです。消費者側にとっては、いつでも好きな時に福祉サービスが使われるということは、沢山のお金がかかることと思われているようです(このことは、おそらく浅い思いつきに過ぎないのですが)。できることなら決められた日に使ってもらった方がお金がかからない・・・。ここに電照菊の合理性が生れるのです。
障害者自立支援法は、利用者側の合理性によって成立しているのではありません。利用者側が福祉サービスの消費者だというのも嘘です。
緊急一時保護の時代から四半世紀たったというのに、いまだに夜中に具合が悪くなって、あるいはサービス受給量を越えて具合が悪くなって、福祉サービスを使えない人達があとをたたないのです。菊に当てられる人工光のように障害者自立支援法で照らされることで、必要な時とサービスを受ける時をずらされてしまっている人達・・・。
電照菊が出荷されるように、とりあえず困らない(社会にとって)障害者を、行政と国民という消費者の合理性に従って生産しているのが、障害者自立支援法なのです。
もちろん、電照菊にしても、水を与えられ、肥料を与えられ、害虫を駆除してもらえます。同様に障害者自立支援法のもとでも生活支援を与えられ、権利擁護をしてもらえるでしょう。だから助かっている人はいるでしょうし、障害者自立支援法さまさま、という人もいるに違いありません。
でも、それが本当の日本人の生き方なのか!

僕らは、もうひとつの福祉の考え方で考えました。ですから当時の社会福祉そのものを否定するのではなく、その外側にもうひとつの解決策を共存させることを考えたのです。
それはつまり「ばおばぶ」に来る人の側の合理性を大切にしようということです。夜中でも、日曜日でもなんでも、その人が福祉サービスを必要とする時に、僕らは機能しようということ。僕らには人工光やビニールハウスにあたるような制度を持つのはやめよう。利用者側の思いをずらして損をしないようにというような合理性ではなく、使いたい人が使いたい時に「ばおばぶ」はあるんだという利用者側の合理性に立った合理性。

農業分野に、工業生産のような科学的で文明的な大規模農業があるように(それは電照菊どころかバイオでの新種づくりまで行っています)。障害福祉分野には障害者自立支援法という全国を網羅する制度があります。
同様に農業分野の中には、できるだけ自然の合理性の方に従った小規模だけれどもいいものを作ろうという農業だってあるのです。
つまりこれと同様に、制度という消費者(行政、納税者)側の合理性ではなく、利用者側の合理性を可能な限り大切にする障害福祉もあっていいのではないか。
いや、むしろそれらはあるべきで、その両者が共存している中でのみ、本当の利用者による選択が行われる。その時が、本当の意味で障害者側が利用者であると同時に、福祉サービスの消費者になる時なのだろうと考えます。

誤解してはいけません。
現在、障害を持つ人達は福祉サービスの利用者にすぎません。
福祉サービスを消費している消費者は、行政と多くの納税者、社会の側と言い換えてもいいかもしれません。
そして障害者自立支援法は、利用者が生きたい暮らしの創造ではなく、消費者が困らない障害者を造り出すための人工光なのだろうと思います。


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