昨日書いた「民主主義の国家体制であることと、民主主義国家であることはイコールではない」の続きです。
安倍総理は、「民主主義国家体制」であれば「民主主義国家」なのだと単純に思い込んでいるのではないか。そう思うのですが、もしかしたら「民主主義国家体制」云々を抜きにして、もっと単純に現在の日本が「民主主義国家」だと思い込んでいるのかもしれない。そんな疑念もあります。
そこで、今回は現在の日本の国が「民主主義国家」には未だに成りきっていないことを明らかにしたいと思います。
「民主主義国家体制」というのは民主主義を実現するための「方法」の一つです。そして「民主主義国家」であるかどうかは民主主義の「本質」が問われることです。つまり、僕はまだ日本は実態として民主主義に至っていないと思っているわけです。
安倍総理は王権の時代の憲法は国家の権力を縛るものだったが、民主主義国家の憲法にはそれだけではなく国家の姿を書き込んでもよいだろうというような意味の発言をしています。つまり現在の日本は民主主義国家であって、王権の時代ではないというわけです。
でも、本当にそうでしょうか。国の体制のあり方でいうなら、少なくとも王様はいないので、今の日本の国家体制は王権では無いと言えるかもしれません。しかし、問題なのは国の外見ではなく、本質です。現代日本という国家の実態が本当に民主主義なのか、それとも王権の時代なのか・・・。
長いあいだ、君主の至上権を特徴づける特権の一つは、生と死に対する権利〔生殺与奪〕であった。
これは、ミシェル・フーコーの『性の歴史T 知への意志』(渡辺守章訳)からの引用です。
この「生殺与奪」の権利について、フーコーは同書でこう説明しています。
主権者=君主はそこでは生に対するその権利を、ただ殺す権利を機能させることによって行使するか、あるいはそれを控えるかである。彼は生に対する彼の権力を、彼が要求し得る死によってのみ明らかにする。「生と死の」という形で表わされている権利は、実は死なせるか、それとも生きるままにしておくかの権利である。結局のところ、それは剣によって象徴される。
より具体的な例は、たとえば君主が反抗する臣下に対してとる、こうした対応に見ることができます。
もし臣下の一人が彼に反抗して彼の権利を妨害するとしたなら、その時彼はその男の生命に対して直接的な権力を行使することができる。刑罰という形で、彼はその男を殺すだろう。
僕はこうした古き王権の時代と同様なことが、現在の日本でも未だに続いているのだと考えています。
もちろん、安倍総理という権力者が気に入らない国民がいると剣によって殺している、などというつもりはありません。しかし剣を法律や制度に置き換えて、今でも権力者は「生殺与奪」の権利を行使しているのです。
フーコーが書いている王権の時代には、おそらく今日的な医学の進歩はなかったと考えられます。したがって、想定される人間像は「死なせなければ生きるままになっている人々」だったのです。したがって「生殺与奪」の象徴は剣であり、命を奪うということでその権利が明確となっていたのです。しかし現在の日本には医学が進み、重症心身障害児者や高齢者などの中に「放っておけば生きていられなくなる人々」が大勢います。彼らは権力者が殺そうと剣を振るわなくても、無策でネグレクトな政治を行っていればその命を奪われるのです。彼らにとっての「生殺与奪」の象徴は剣ではなく、政治的ネグレクトです。
重症心身障害児の置かれている状態だけをとってみても、それは明白です。生れる段階で、超未熟児であれば生きるために必要なNICUが、まず不足しています。出産の安全という政治を怠るだけで、権力者は剣を振るわなくても毎日のように幼い命を奪うことができています。NICUで命を取り留めて家に戻っても、医療的ケアが必要な重症心身障害児であれば、まわりにケアをする医療や福祉の人々、制度が必要になります。ここでも、そうした整備を無策な政治が怠っていれば、やはり命は失われるのです。
これが民主主義であるとは、到底言うことができません。民主主義国家体制の日本においても、いまだに権力者による「生殺与奪」の権利を行使され、命を奪われている人達がいるということ。日本はまだ民主主義国家への発展途上なのです。
では、民主主義とはどういう状態なのか。それを定義するのは困難なので、ここでは王権の時代とは異なっているということで表すこととします。王権の時代の「生殺与奪」の権利は国民に「生きるか死ぬか」の状態を強いるものでした。これに対して、民主主義の時代は、国民が「より良く生きる」ことを求める時代だと考えてみます。現在の日本でも多くの国民は、「生きるか死ぬか」という実感よりも、「もっといいものを食べよう」とか「もっといい家に住みたい」とか「より良く生きる」ことを意識しているのではないでしょうか。
もちろん王権の時代にも、「より良く生きる」ことを意識して日々暮らすことができる人達はいたと思います。強い権力を持った特権階級の人達です。
同様に、現在も「より良く生きる」ことを意識して暮らしている人達と、「生きるか死ぬか」の日々を暮らさせられている人達が混在しています。昔と今とで異なるのはその比率が変わって来たということです。
王権の時代には「より良く生きる」派は少数で、大多数が権力に「生殺与奪」を握られた「生きるか死ぬか」の人達でした。それが、現代の日本では「より良く生きる」の方が圧倒的に多くなって、「生きるか死ぬか」の人達は少数派になっています。そのために、少数の人達に気付かない国民や、気がついていても無視することができる人達は、呑気に現在の日本が民主主義国家だと言えてしまうのでしょう。しかし、一人でも権力者に「生殺与奪」を握られている国民がいるのなら、その国は国家としては民主主義国家だとはいえません。外見の国家体制が民主主義国家体制なので王権ということもできませんが、たぶん一番妥協した言い方は、やはり、今の日本は民主主義を目指している途上の国、ということでしょうか。
どうしても日本を民主主義の国家だと言いたいのであれば、自分にとって日本は民主主義国家だ、という言い方が精一杯なのだと思います。
さて、問題なのはここからです。
おそらく、王権の時代にも「より良く生きる」派に属しているつもりで、実は「生殺与奪」を握られている、「なんちゃって、より良く生きる」の人々がいたと考えられます。そうした人達は日常的に君主と食事などする間柄にありながら、ある日突然君主の逆鱗に触れて・・・、みたいな人達です。この人達は、もともと「より良く生きる」派が少なかったので、さらに少数だったと考えられます。
しかし今は、日本国民のほとんどすべての人が、自分にとって日本は民主主義国家だと思いこんでいるのではないでしょうか。ですから実はいつ、剣や政治的ネグレクトによって殺されるか分からない、それに気付かない、あるいはそのことを考えずにいたい「なんちゃって、より良く生きる」派の人達の数も膨大にいるのです。
たとえば、福島の原発事故が明らかにしたこと。原発を作った時には国からの補助金などが入ってきて、地元の人達は「より良く生きる」気分でいられたのではないでしょうか。しかしそれは「なんちゃって、より良く生きる」に過ぎなかったのです。事故が起きてからの国の無策と東電の不誠意。政治的ネグレクトのために「生きるか死ぬか」の王権の時代に投げ出された人達が、どれほど大勢いることか。何かことが起きたなら、重症心身障害児者と同様に、国の無策によって命を奪われる人達は、本当に大勢いるのです。たとえば格差の広がりなどは、「なんちゃって、より良く生きる」派の人達を一瞬にして「生きるか死ぬか」の人達に変えてしまうのでしょう。
さらに、剣も振るわれるかもしれません。分かりやすいのは軍国主義化ですが、それ以外にも出生前診断や尊厳死など、他人という権力者が「生殺与奪」の権利を持つ方向に日本は進みつつあります。
そういう意味では、日本は民主主義を目指しているのではなく、民主主義国家体制をとりながらその体制の下で民主的に粛々と王権の時代に向かっている、という言い方こそが正しいようにも思います。
そこで、もう一度、安倍総理の言葉を思い出してみましょう。
王権の時代の憲法は国家権力を縛ることがすべてだったが、今の日本は民主主義国家なので、それだけではなく国の姿を書き込むこともできる、みたいなことを言っていました。
もうお分かりと思います。今の日本は王権に向かっているのですから、憲法は国家権力を縛ることだけに徹するべきなのです。
そして、前に「民主主義の国家体制であることと、民主主義国家であることはイコールではない」で書いた通り、形だけの民主主義国家体制に隠れて王権に向かおうとする輩が憲法に書き込みたがる、あるべき日本の姿などというのは、おおむねヒットラーと大差の無いような発想によるものなのでしょう。
日本の国が本当の民主主義国家になるために、つまり重症心身障害児者であっても高齢者であっても、超未熟児であっても、リストラされた人であっても、被災した人であっても、とにかくすべての国民が「より良く生きる」ことを意識した日々を遅れるようになるために、憲法にはまだまだ国家権力を縛る役割に専念していてもらわなければなりません。
そして無策な政治的ネグレクトという剣を、すなわち「生殺与奪」の権利を政府が破棄するその日まで、憲法に国のあるべき姿を書き込むことなどしてはいけないのです。
2013年07月19日
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