2014年12月13日

新自由主義と障害者

まだ、じゅうぶんな推敲もせず、小見出しなども整理していない走り書きです。
こうして記事にするのは気がひけるのですが、現在作っているペーパーの通信と連動する内容なので、急ぎアップすることとしました。
誤字脱字、わかりづらい部分等々、ご容赦ください。


 とっても気になるので書いておきます。
 障害者と呼ばれてしまう人たちに関わる人たちの多くが、未だに措置制度から支援費制度へ移行したことについて、理解していない。あるいはそれ以前に、深く考えて現状を(おそらくは自分自身が立っているはずの現状でさえも)認識しようという意志がない。思考停止に逃げ込んでいる状態にあるように思えるのです。
 措置制度から支援費制度へと移行したことを、与えられたキャッチフレーズ通りに「措置から契約へ」としか認識していない。正確にいうと思考停止しているので、それは認識でさえないのですが。そして、利用者がサービスを選ぶと本気で信じている。さすがに支援費制度から障害者自立支援法、総合支援法と騙され続けているうちに、選ぶ権利を本当に持っているのが、利用者側ではないことに気づく人は増えてきました。しかし驚くべきことに、支援費制度がはじまった時には明るい未来を信じる人がそれなりに大勢いたし、今でも少なからずいるのだろうということ。
 措置制度から支援費制度への移行。それは「措置から契約へ」というような可愛らしい話ではありません。経済の視点で言うなら、日本の資本主義体制の中にあって、これまでは特別に保護という枠での計画経済にいたものが、資本主義の中に組み込まれるようになったということなのです。このことがどれほど恐ろしいことなのか、明らかにしていきたいと思います。

 一言で資本主義に組み込まれるとはいっても、その資本主義がどのようなものであるのかによって組み込まれ方の程度は変わってきます。公共事業を行って景気回復をしようというケインズ経済学なのか、小さな政府を目指す新自由主義なのか、などなど。こうした経済の手法は、資本主義か共産主義か、というような大きなあり方と同列のものではありません。大きく資本主義を選択している国家において、生じてくる経済問題を解決する手段としてその都度、何らかの経済手法がとられるわけです。ですから、現在アベノミクスというどちらかというとケインズっぽい手法をとっている安倍首相も、第一次安倍内閣の時には新自由主義の手法で経済対策を進めようとしていました。したがって資本主義に組み込まれた障害福祉制度は、これから経済施策が変わるたびに、他の産業同様に栄枯盛衰の激流に揺さぶられ続けることになるのです。
 とはいっても、最初組み込まれた時に、どの経済手法のもとで組み込まれていたのかは重要です。その手法に適合する形で出発したわけですから。覚えているでしょうか、支援費制度がはじまった2003年当時、内閣は小泉純一郎内閣(2001〜2006年)だったのです。

 小泉純一郎元総理の経済手法。それは新自由主義、とりわけミルトン・フリードマンのそれでした。小泉元総理が行った目玉政策に郵政民営化がありましたが、これなどはフリードマンの著作『資本主義と自由』に書かれているアメリカでの郵政事業の自由化のくだりと重なるものです。
 そこで、フリードマンの新自由主義について考えたいと思います。僕は経済学について大きな興味は無く、フリードマンの著作は『資本主義と自由』しか読んでいません。ですからその知識だけで考えるのは正確性に欠け、いささか心苦しいのですがお許しください。
 フリードマンは個人の自由を重要なものと捉えて、政府の役割をできる限り小さくすることを推奨しています。僕の考える社会のあり方と合致するところもあり、評価できる経済学者なのだろうと思います。ちなみにフリードマンはアメリカの経済学者で1912年生まれ、2006年に亡くなっています。ノーベル経済学賞も受賞しています。
 しかし、僕はこの人の経済学の思想を好きにはなれません。
 『資本主義と自由』から、新自由主義下での障害者のあり方が読み取れる部分を引用します。

 自由は、責任ある個人だけが要求できるものである。狂人や子供の自由に正当性があるとは考えない。したがって、責任ある個人とそれ以外との間に線引きをしなければならないが、この時点ですでに、自由という目標には本質的な曖昧さが潜んでいることがわかる。そして責任をとれないとみなされた人たちについては、政府が否応なく温情的干渉をしてくる。
 いちばんわかりやすいのは、狂人の場合だろう。狂人に自由を認めたくはないが、しかし射殺したくはない。誰かが自発的に狂人を住まわせ世話をしてくれるなら大変ありがたいことであるが、そうした慈善事業的なやり方に頼ることは適切と言えるのだろうか。たとえば私が狂人の世話をすれば他の人が恩恵を受け、そこには測定しにくい外部効果が発生する。この点を考えただけでも、慈善活動に頼るのは不適切と言えよう。こうした理由から、狂人の世話は政府を通じて行うのが望ましいと考えられる。
        
(『資本主義と自由』ミルトン・フリードマン 村井章子訳 日経BP)


 この本は1962年に発表されているのですが、それにしても物騒な主張です。ここで「自由を認めたくはないが、しかし射殺したくはない」対象とされている「狂人」は、現在でいうところの精神障害者を指しているのではありません。責任ある個人以外の人たちから子供を除いたすべての人たちのことを指しているのです。「責任ある」の意味をどうとらえるかにもよりますが、おそらく現在日本で障害者と呼ばれている人たちの大部分か、あるいはそのすべてが「狂人」に括られているのかもしれません。さらには介護保険の対象になっている高齢者や、仕事を持たない(所得税を納めていないことを、責任を果たしていないと考えた場合には)人たちなども含まれるのかもしれません。
 とにかくそれらの人たちは「狂人」であり、彼らの自由には正当性がないとフリードマンは言っているのです。このことがやっかいなのは、フリードマンが提唱する新自由主義は、こうした考えをベースにして成立し、日本における「措置から契約」への背景に隠れているのだということです。
 少しばかりイジワルな解釈が許されるなら、フリードマンの引用部分には「狂人に自由を認めたくないが、しかし(犯罪者になりたくはないので)射殺したくはない」というような本音が隠れているように思えます。
 「措置から契約」への移行を手放しに喜び、そこに明るい未来を感じた人もいたかもしれません。しかしその根底には、障害者の自由を認めない、ともすれば射殺してしまいたいという意識が潜んでいたのです。
 同書には、新自由主義が差別を解消すると論じている部分もあります。しかしここで対象となっている被差別者は、責任ある個人であり、その自由に正当性がある人たちに限られます。人種差別の対象になっている人たちや、思想信条における少数者などであり、つまりは大多数のアメリカ人と同様に働き、責任をまっとうする能力をあらかじめ持っている人たちのことです。そうした人たちが受けている差別を、新自由主義は解決すると言っているだけなのです。
 このことを突き詰めて考えていくと、フリードマンの考える差別の中には「狂人」は含まれないということになりそうです。彼の定義の中での差別は自由に正当性がある人たちが、差別されていることであり、それを持たない「狂人」たちが置かれている困難な状況は差別ですらない、ということなのでしょう。
 さて、だいぶ説明に時間がかかりましたが、小泉内閣が主導するフリードマン型の新自由主義という経済手法のもとで行われた支援費制度への移行。その「措置から契約」の正体とは、障害福祉を資本主義に組み込むということでした。そしてその組み込まれ方は、障害者については「自由に正当性のない狂人」というポジションに。そして障害福祉制度はその「狂人」の世話を政府を通じておこなう役割として。そのように資本主義の中に組み込まれたのです。
 僕はこの「狂人」扱いをする考え方が、新自由主義だけに特有のものとは思っていません。おそらくそれは資本主義である以上、その根底にドロドロと根付いているものなのではないかと感じています。新自由主義と対比されることの多いケインズ経済学においても、それが経済活動である以上、責任ある者とそうでない者、自由に正当生のある者と無い者を分けているのではないか。それが「狂人」というほどの言い回しでなかったとしても。
 あるいは新自由主義以外の経済手法がとられている時には、障害者は一切の差別を受けないのだとしても(そんなことは想定できないのですが)、経済の手法が時々の課題解決のために変化する事を考えると、必ず新自由主義がとられる時はくるわけです。その時には、やはり障害者は射殺しない代りに自由も与えない、という領域においやられるのでしょう。
 これがつまり保護という計画経済から引きずり出され、資本主義に組み込まれた、措置制度から支援費制度への移行の正体なのです。
 念のために書いておきますが、僕は措置時代を良いとは思っていません。しかし支援費制度への移行以後の障害福祉施策は措置時代と遜色の無い酷さだと考えています。もっと根本にある課題に立ち向かわなければ、本質的な問題解決はできないだろうというのが僕の主張です。これについては書き始めると長くなるので、ここでは触れないこととします。

 少し障害者と呼ばれてしまう人たちのことから離れて、フリードマンのいう「自由は、責任ある個人だけが要求できるもの」というくだりを考えてみたいと思います。フリードマンは性人ある個人以外の者として「狂人」と「子供」をあげています。しかし僕はこの言葉が表わすのはもっと多くの人たちであるような気がしています。
 たとえば一つの事件が起きたとしましょう。傷害事件で被害者は重症をおったとします。その時に犯人が責任能力を問われない人であった場合、国民感情として「責任能力が問われないなら自由を与えるな」という声が上がることは想定されるでしょう。それが正しい声かどうか、納得できる声かどうかは別にしてです。この流れはフリードマンの考えと一致しているといえます。
 では、こんな場合はどうでしょう。犯人は責任能力があるので実刑に服することとなった。しかし経済的に貧しく被害者に対して慰謝料も、病院の治療費も払うことができなかった。この場合、実刑に服するということで責任は果せたことになるでしょうか。人それぞれの受け止め方とは思いますが、それだけでは自信の起こした事件への責任は果せても、相手の被害への責任を果せてはいないとも考えられます。その場合、この犯人は正当性のある自由を持っているといえるのでしょうか。「正当性のある自由」を持っている人というのは、実は新自由主義下においては極少数なのではないかと、僕は考えています。
 もっとも、この例は犯罪なので、その時点で自由に正当性は無いのですが、事故であったとしても同様のことがいえるのでしょう。たとえば車を運転していて事故を起こした時、お金がなくて強制保険以外に入っていなかった場合、それなら車を運転する資格はない、という主張が出てこないともかぎらないのです。
 もっと広く考えるなら、商品を購入する事を「自由」、そしてその代金を支払うことを「責任」とも定義できます。その場合には、貧しい人間には自由はない、ということになりますし、中間層あたりの人だと、常に「自由」と「自由なし」の間を行き来していることになりそうです。
 問題は二つあります。一つは、「自由」と「責任」の結びつけ方はフリードマンの指摘する通りで良いのかどうか、ということ。そしてもう一つは、かりに良いとしても(僕は良いとは思っていないのですが)、社会を責任ある個人だけで構成して良いのか、ということです。
 その場合には、いわゆる富裕層と、一般的な責任レベルで推し量ることのできない権力者(封建制時代の王権や、過激な集団の指導者、権力が極端に集中している大統領など)によって社会が形成されることになります。そして大多数の国民は「正当性のある自由」を持たないまま社会で生産と消費を奴隷となり、「狂人」は政府を通じて世話をされる、ということになるのでしょう。極端な感じがしますが、これがフリードマンの目指している新自由主義の理想型のように、僕には思えるのです。

 さて、障害者と呼ばれる人たちと新自由主義の話しに戻しましょう。
 支援費制度以降、障害福祉制度は資本主義に組み込まれてしまいました。ですから、その時々の政府が行う経済施策によって、その規模や性質がかえられます。けっして障害者のために、ではなく、あくまでもその時々に選択されている経済手法の都合によってかえられるのです。もちろん、その都度、政府は「障害者のみなさんのために……」と言うでしょうが、もうそろそろ、それを信じるのはやめにした方がよいと、僕は思っています。
 予測される悪いシナリオを想定してみましょう。
 経済が回復せず、あるいは一時的に回復したとしても、必ず悪い時期はくるわけで、その時には、「狂人」の世話をする政府は小さい政府になる可能性を持ちます。つまり経済手法として新自由主義が選択される可能性があるということです。それはとにかく政府機能を最大限に小さくしようとするわけですから、たとえばサービスを利用したときの自己負担を増やしたりということにもあらわれてくるでしょう。新自由主義の究極としては、現在政府が負担している分をゼロにすることが正義なのですから。生きていくという「自由」に対して責任をとるということが、場合によってはそういう形で襲ってこないともかぎらないのです。
 その究極として考えられるのが、「狂人に自由を認めたくはないが、しかし射殺したくはない」という本音のタガが外れる事態です。つまり本人のためをよそおうような体裁で、「射殺」がはじまる事態。たとえば財政を圧迫しかねない高額医療を必要とする「狂人」たちへの尊厳死の奨励。これなどは、特に新自由主義の文脈で行われた場合には、合法的な射殺であると考えた方がよいでしょう。

 支援費制度への移行から自立支援法をへて、総合支援法まできました。そしておそらくこの制度でしばらくは落ち着くのでしょう。
 ですから、どうぞ、今まで思考停止していた人たちは、そろそろ考え始めてください。障害者と呼ばれてしまう人たちが、日本という国の中でどのような位置に追い立てられているのか。
 そして、あなたが障害福祉に関わる人であるなら、自分自身の仕事が、資本主義経済の中でどのような姿をしているのか。
 もし、あなたが障害福祉と特に関係なかったとしても、新自由主義のもとにおいて、正当性のある自由をどれだけ許されているのか。

 とっても気になるので、苦手な経済学の話ですが、書いてみました。


posted by 五十嵐正人 at 17:01| Comment(2) | TrackBack(0) | 五十嵐の意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
自民党が圧勝したご時世の中で福祉とりわけヘルパー派遣制度、現金給付系の諸制度が危ない!これからどう重度な障害者が生き抜くべきと五十嵐さんは考えるかをそしてそのすべを是非ともご教授ください。
よろしくお願いします。
Posted by 渡辺由美子 at 2014年12月18日 22:10
渡辺由美子様
コメント、ありがとうございます。
お教えできるようなことは、何もないのですが・・・。
現実として、生きていくために制度が重要であるなら、そこから変えていかなければならないだろうと思います。もし、制度がなければ生きていけないという状況があるとしたなら、生殺与奪権を行政に預けていることになります。なによりも、それを取り返すべきです。
「生存権」と「基本的人権」は国の制度に。そして「幸福追求権」は人々との営みの中に。僕はそれを目指すべきだと考えます。
そこらへんのこと、明日郵送予定の通信に書いてみました。届きましたら、どうぞご高覧ください。
寒い日が続きます。どうぞ、お身体に気をつけてお過ごしください。
Posted by 五十嵐正人 at 2014年12月22日 01:19
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